辻内崇伸

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辻内 崇伸
辻内 崇伸

辻内 崇伸(つじうち たかのぶ、1987年12月5日 - )は、奈良県磯城郡川西町出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ

2005年のドラフト読売ジャイアンツ(巨人)から高校生1巡目指名を受けて入団したが、度重なる故障に悩まされて一軍登板がないまま2013年限りで引退。2014年からは日本女子プロ野球機構(JWBL)のイースト・アストライアのコーチへ就任するとともに女子プロ野球を支援している、わかさ生活の正社員を務める。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

辻内 崇伸

奈良県出身。小学校1年生の時、一塁手として野球を始める。中学生時には「郡山シニア」に所属し、投手に転向した。

大阪桐蔭高等学校に入学すると、2年時からエースとして活躍し、2005年の夏の甲子園一回戦の春日部共栄戦、5回6失点の乱調で降板したものの、先頭打者への2-2からの外角に外れた速球が国内左腕最速となる156km/hをマーク(ネット裏のオリックス・バファローズスカウトのスピードガンによる計測。甲子園の電光掲示板には152km/hと表示)、日本中の注目の的となった。

二回戦の藤代戦では大会タイ記録となる19奪三振を記録。同校が初出場・初優勝を果たした1991年の夏の甲子園以来の4強入りを果たし、辻内自身も1大会における通算奪三振で板東英二の83奪三振に次いで当時歴代2位の65奪三振(2006年の夏の甲子園斎藤佑樹が78奪三振を記録し現在は歴代3位)を記録した。準決勝では駒大苫小牧田中将大(現・楽天)から本塁打も打っている。

同年のアジアAAA選手権に投手として出場し、日本代表の松坂大輔らを擁した1998年大会以来となる優勝に貢献した。

2005年高校生ドラフト読売ジャイアンツオリックス・バファローズとの競合の末巨人が指名権を獲得し、1巡目指名で入団。(入団までの経緯は後述参照)抽選に外れたオリックスは岡田貴弘を外れ1巡目指名している。

プロ入り後[編集]

辻内 崇伸
辻内 崇伸

2006年のキャンプでは1軍キャンプスタートとなるかに注目が集まったが、肩痛もあり2軍スタートとなる。6月に発症した左肩の炎症による離脱でフレッシュオールスターゲーム出場を辞退するなど、ルーキーイヤーはシーズン終了まで2軍で制球力の育成・調整登板が続けられた。イースタンリーグ成績は、登板13、3勝4敗、防御率6.04。オフ、ハワイ・ウィンターリーグ(10月1日~11月21日)に派遣。現地では「ホノルル・シャークス」に所属し、テークバックや体重移動の少ないフォームを目指し、いわゆる「外国人のフォーム」を吸収する。また投球の幅を広げる為スライダーを試投、チェンジアップも習得。先発投手として8試合30イニング、1勝2敗、35奪三振、防御率2.30の成績を残した。

2007年の自主トレではハワイで磨いたスライダーとチェンジアップを軸にするため、井川慶の投球術を手本にしたいと語り、1軍スタート組に抜擢された春季キャンプでは、ストレートなど同一の球種を状況において投げ分けることを目指した。原辰徳監督や尾花高夫投手総合コーチ、ウィンターリーグに帯同した斎藤雅樹投手コーチも彼への期待のコメントを残していたが、2月9日に左肘痛で2軍落ち。ノースロー調整を続け3月中にはキャッチボールをするまでに回復したものの3月24日に再発。精密検査の結果、内側側副靭帯の断裂と診断され、再建手術を行う事となった。4月26日に手術を受け無事に成功したが、手術の特性上再建した靭帯の定着に非常に時間がかかる為、2007年の公式戦出場はなかった。

2008年は2軍でフューチャーズの一員として実戦復帰し速球もMAX150キロを記録するなど復活の兆しを見せたが、公式戦での出場はなかった。同年12月26日に背番号を15から39に変更された。

2009年は2軍の公式戦にも復帰し、木佐貫洋に次ぐ7勝、防御率2.69という成績を残しチームのイースタンリーグ優勝に貢献、2006年に辞退したフレッシュオールスターゲームにも選出された。しかし、与四死球49、暴投7はいずれもチーム最多であり、制球力に課題を残す結果となった。

2011年から背番号が39から98に変更された。

2012年3月17日埼玉西武ライオンズとのオープン戦に2番手として一軍戦での初登板を果たし、最速147キロをマーク。被安打2・失策絡みの1失点を記録した。リリーフとして二軍戦で43試合に登板し、8月16日には初めて一軍に昇格したが、登板はないまま8月22日に登録抹消された。オフには4歳年上の女性と結婚している。

2013年は春季キャンプでは一軍でスタートしたが肩の調子が上がらず、第2クールからは二軍に合流した。ブルペン入りの翌日左肘に強烈な痛みを覚え、腕が上がらなくなる状態に陥ったため別メニューでの調整が続いていたが、痛みの原因となっている遊離軟骨内視鏡で除去する関節クリーニング手術を受けることが決まり、3月11日に群馬・館林市内の病院で手術を受けた。8月31日に帝京大学とのプロアマ交流戦で復帰登板したが、シーズン登板はこの試合のみであった。結局10月1日に戦力外通告を受け、一軍での公式戦の登板がないまま引退することとなった。帝京大学との試合の約1週間前に肘の痛みが再発した時点で辻内は引退を覚悟し、試合でも直球が最速131km/hに留まるなど本来の姿からは程遠く、諦めの気持ちもあったという。

それからの辻内[編集]

辻内 崇伸
辻内 崇伸
辻内 崇伸
辻内 崇伸

蝉の鳴き声が耳につく季節にもなれば、日本国民の視線は押しなべて、とある大会へと集中する。もはや国民的行事と言っても大袈裟では無いほどの催しとなった夏の甲子園大会では、全国を勝ち抜いた強豪、古豪、新鋭が鍔迫り合い、ドラマが生まれ、そして、ヒーローが生まれる。

あの夏のヒーローを一人挙げろと問われたならば、野球ファンは決まって、あのサウスポーの名前を口にするだろう。

ゆっくりと振りかぶり、右足を上げる。柔らかく、それでいて大胆なそのフォーム、鋭く振られた左腕から放たれた、唸るようなボールが、外一杯に構えられたミットに収まる。小さく弾けるような小気味の良い音が響き、心なしかしんとした球場に、審判のコール。打者がのけぞり、天を仰ぐ。150km/hを超えた電光掲示板の表示に、球場はまた、沸き立った。

辻内崇伸。準決勝で惜しくも苦杯を喫した彼ではあったが、あの夏、人々の注目を最も集めたのは、この男と断言して良いだろう。

マスコミは十年に一人の逸材と囃し立て、評論家は口を揃えて怪物だと評した。巷ではしばしば海の向こうの名投手、ランディ・ジョンソンになぞらえて、そのピッチングが如何に秀でているかが語られた。

当時の大会記録である一試合19奪三振や、未だに破られていない156km/hの左腕最速記録も、その評価がでたらめな物ではないことを証明しているようにも見えた。

「長く活躍できる選手になりたいです」

精悍な面構えに、時折、笑顔を湛えてインタビューに答えるその姿は、人々に飛躍を確信させた。

0勝0敗0セーブ、登板数、ゼロ。

これが辻内の通算成績になろうとは、あの時誰が予想できただろうか。新人王の候補にも挙げられたルーキーイヤーは怪我が続いて一軍のマウンドに登ることは無かった。二年目には手術をした。その後の丸二年間は、ファームでの登板すらなかった。ようやく実戦復帰を果たしても、高校時代の辻内は、完全に失われていた。ストライクが入らない。入っても、力のないボールは簡単に弾き返された。背負う番号は段々と重くなった。それに反比例するように、その背中にかかる期待は軽くなっていった。

未来のエースとして将来を嘱望された男は、結局、一軍のマウンドにすら、届かなかった。

コンビニ経営を始めると、辻内は寝る間も惜しんで働いた。レジ打ちをして、掃除をして、売り上げの確認をして、商品の発注量を決めた。気づけば日が暮れている。毎日のように廃棄弁当を食べて暮らした。

「あいつが生まれてこなかったら、僕はもう駄目でしたね」

激務をこなす辻内の原動力となっていたのは、引退後に誕生した愛息だった。コンビニ経営が軌道に乗るころには、自分が野球選手であった事など、忘れてしまっていた。忘れてしまっている、ふりをしていた。

息子にプロ野球選手になって欲しいかと問うと、辻内は微妙な表情を浮かべた。笑うでもなく、泣くでもない。肯定するでもなく、否定するでもない。そんな、えもいわれぬ表情を浮かべていた。

「こんな親で良かったのかなって思う事も、よくあるんですよ」

遠くに目をやりながら、辻内は言った。野球選手としての自分と、父親としての自分の間での、激しく、辛い葛藤が、垣間見えた。

「初めて、キャッチボールをしてみようかな、と思うんです」

息子の9歳の誕生日に、辻内は、グローブを贈っていた。左投げの、ピッチャー用だった。そのグローブを抱えては、息子が毎日のように公園に通うのを、辻内は知っていた。急かす息子にボールを寄越すとき、辻内は訊いた。

「俺が父さんで良かったかな。こんな父さんで、良かったかな」

返事の代わりに、小さく唸るようなボールが返ってきた。辻内のグラブが、小気味の良い音を立てた。小さく弾けるような音が、公園に響いた。ゆっくりと振りかぶり、右足を上げて、鋭く左腕を振ったその姿は、あの夏のヒーローに、とてもよく似ていた。

現役引退後[編集]

引退を決めた直後には、不動産会社の営業職に転身することを検討。2013年12月30日TBS系列で放送された『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』(TBS制作)では、巨人から戦力外を通告された直後から不動産業界への転職活動に至るまでの経緯を、妊娠中の夫人を交えての密着取材映像などで紹介した。しかし、日本女子プロ野球機構(JWBL)の関係者が、長年にわたって故障のリハビリへひたむきに取り組んできた辻内の姿勢などを高く評価。辻内も、JWBLから指導者としてのオファーを受けたことを機に、2014年からJWBLに所属するイースト・アストライアのコーチへ就任するとともに女子プロ野球を支援している、わかさ生活の正社員になることが決まった。2014年6月には、TBS系列「私の何がイケないの? 元巨人軍選手の引退後の人生」において、その仕事ぶりと日常生活が紹介された。

選手名鑑コメント[編集]

2006年 184㎝88㎏ 背番号15 年俸900万[編集]

辻内の嫁
  • 久々に表れた超大物高卒ルーキー。夏の甲子園記録タイとなる1試合19奪三振を達成。最速156キロをマークし、一躍スターに。ドラフトはオリックスと競合の末、入団。
  • 指名権獲得を勘違いされるトラブルに巻き込まれ話題にも。「プロの体をしっかり作り、新人王を取ってみたい」

2007年 184㎝88㎏ 背番号15 年俸900万→810万[編集]

  • プロの壁は厚かった。左肩痛もあり一軍デビューは今年にお預けに。ハワイ・ウィンターリーグで原点回帰、かわさず直球で真っ向勝負するスタイルが戻った。三振か四球か、ではやはり厳しい。制球力アップがすべてだ
  • 二軍成績:13試合 3勝4敗 53回2/3 47奪三振 43四死球 防御率6.04

2008年 184㎝88㎏ 背番号15 年俸810万→700万[編集]

辻内の嫁
  • 昨年、左ひじ再建の大掛かりな手術を受けた。辛抱強くリハビリを続け、キャッチボールが可能なレベルまで回復してきた。
  • 2005年の高校生ドラフト一巡目で、日本ハム中田の2年先輩。甲子園沸かせた150キロの豪速球を取り戻し、まずは2軍戦登板、そして1軍登板とステップアップしたい
  • 二軍登板なし

2009年 185㎝88㎏ 背番号15→39 年俸700万→550万[編集]

  • 左ひじ手術の回復が遅れ、公式戦での登板はなかった。それでも地道なリハビリのかいもあり、150㌔の直球が復活した。今オフは米アリゾナで自主トレ。野球漬けの毎日を送り、体を鍛え上げた。
  • 鳴り物入りで入団したが、今年で4年目。まずは2軍戦登板へ、背水の陣でシーズンに臨む

2010年 185㎝88㎏ 背番号39 年俸550万→600万[編集]

  • 手術した左ひじが完治し、150㌔の直球が完全復活。昨季は2軍の先発ローテで1年間投げ抜いた。オフはアリゾナウィンターリーグに参加。メジャーの卵と汗を流した。今季こそ初の1軍登板を目指す
  • 二軍成績:16試合 7勝4敗 77回 42奪三振 49四死球 防御率2.69

2011年 185㎝88㎏ 背番号39→98 年俸600万→550万[編集]

辻内の嫁
  • 背番号が15→39→98と変更し、かつての大物ドラフト1位も背水の陣で6年目に挑む。昨秋は川口コーチに師事しアドバイスを受けた。150㌔を誇る直球を生かすため。苦手の変化球の制球を磨き生き残りをかける
  • 二軍成績:3試合 0勝0敗 1回1/3 0奪三振 2四死球 防御率13.50

2012年 185㎝88㎏ 背番号98 年俸550万→500万[編集]

  • 昨年11月にプエルトリコのウィンターリーグに参加し、チェンジアップ習得に取り組んだ。最速150㌔を超える大物ルーキーとしてプロ入りしたが、6年目を終えて1軍登板なし。「最後のチャンス」と本人が位置づける7年目は、まさに背水のシーズンだ
  • 二軍登板なし

人物[編集]

趣味は読書。

リトル時代は、足を怪我していたのにランニングホームランを放ったり、手を怪我していたのに投球をしたこともあった。

本人は地元の高校に進学したかったが、所属していた「郡山シニア」の監督や両親から説得され、大阪桐蔭高等学校への進学を決意した。

高校時代にフォームを崩した際、野球部の監督が工藤公康の投球フォーム連続写真を参考に練習をさせ、フォームの修正に成功した。このこともあり、辻内は工藤を尊敬している。

最高球速は2005年の夏季甲子園大会でオリックスのスカウトが計測した156km/hだが、甲子園球場の球速掲示による公式記録では152km/hである。これは、全国高校野球大会歴代球速ランキング3位で、左投手では2位である。

高校時代、学校を訪れていたOBの岩田稔(当時関大)から指導を受けたことがある。

ドラフトまでの経緯[編集]

2005年のドラフトでは前年から目玉投手として注目を集めており、大物選手には珍しい「12球団OK」という発言もあって、当初は多くの球団が名乗りを上げ激しい争奪戦が予想された。粗削りな点や、抽選を外した場合のリスクを嫌った球団が次々と回避した事もあり、最終的にはオリックス・バファローズ読売ジャイアンツの一騎打ちとなった。

10月3日高校生ドラフトで辻内はオリックス・巨人の両球団に1巡目で指名され、辻内への交渉権を巡ってクジ引きが行われた。この際、事前の説明不足から外れ抽選券を引いたオリックスの中村勝広GMが当たり外れに関わらず押してあるNPBの印鑑を見て交渉権獲得したと勘違いしてガッツポーズ、「交渉権獲得」の印が押されたくじを持った堀内恒夫監督も中村GMの反応のあまり、首をひねりながらも抗議をせず、主催者側も確認を怠ったなど勘違いとミスが重なって、一時はオリックスの選択確定と誤って発表された。

直後の会見で辻内は硬い表情で「オリックスは素晴らしい球団」とオリックスからの指名受諾を表明したが、その後に巨人が交渉権を獲得したことが判明。会見場に巨人が交渉権を得たと伝わると、一転して目を輝かせ右手を掲げてVサイン。異例のやり直しとなった会見では笑顔で「小さい頃から巨人が好きだったんで…」と語り、詰め掛けた同級生や報道陣からも笑みがこぼれた。記者陣は辻内のやり直しの会見時に思わず爆笑していた。本人の「どの球団でも光栄だし好き嫌いを口にすべきでない」という意思から表明を控えていたもので、両親でさえこのとき初めて辻内が巨人ファンだった事を知った。

巨人では松井秀喜以来となる、高卒での契約金1億円(推定)で契約、12月9日に入団発表を行った。大阪桐蔭からは初の巨人入りした選手である。

詳細情報[編集]

背番号[編集]

  • 15 (2006年 - 2008年)
  • 39 (2009年 - 2010年)
  • 98 (2011年 - )

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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