日本棋院

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日本棋院

日本棋院(にほんきいん、英文:The Nihon Ki-in )は、我が国の伝統文化である棋道の継承発展及び内外への普及振興を図るとともに、棋士の健全な育成を行い、囲碁を通して文化の向上に資することを目的とした団体である[1]。正式名は公益財団法人日本棋院であり、本部を東京都千代田区五番町7-2(市ヶ谷駅前)に置く。囲碁の段級位認定は、日本では日本棋院と関西棋院だけが行っている。約300人の棋士が所属している。職員として事務員や棋院発行の出版物をまとめる記者などが所属している。

歴史[編集]

明治から大正前期の囲碁界は、家元の本因坊家と方円社が勢力を競い合っていた。1923年(大正12年)の関東大震災を契機として、大同団結の機運が高まり、中央棋院裨聖会方円社に合同を申し入れ、これを拒否するならば方円社との新聞手合を拒絶すると迫った。方円社はこれを受け入れ、関西の棋士らも参加して棋界合同協議を開催、同年5月に方円社は解散し、翌1924年(大正13年)7月17日、大倉喜七郎を後援者として、碁界大合同による日本棋院が設立された。方円社所属棋士は日本棋院所属となった。総裁に牧野伸顕、副総裁に大倉喜七郎が就任した。

1924年に機関紙『棋道』が創刊された。大倉喜七郎の経済的援助によって1926年に東京麹町区永田町に日本棋院会館が開館した。同年、院社(日本棋院・棋正社)対抗戦が開始された。1927年(昭和2年)、昇段を決める日本棋院の大手合・東西対抗第一回が開始された。1935年(昭和10年)、ラジオ囲碁対局が放送開始された。1936(昭和11)年、第1回全日本アマ選手権戦が開催された。本因坊秀哉から本因坊の名跡は日本棋院にゆずり渡され、1939年(昭和14年)、毎日新聞の協力で第1期本因坊戦が開始された。1945(昭和20)年東京大空襲赤坂区(現港区溜池にあった日本棋院本部が焼失し、目黒岩本七段宅に移転した。1947(昭和22)年には坂田栄男梶原武雄ら8棋士が「囲碁新社」を旗揚げしたが、1949年(昭和24)に日本棋院に復帰した。

1948年(昭和23年)、日本棋院の新会館が東京・芝高輪北町に開館した。1950年(昭和25)年、関西棋院が独立した際に、日本棋院残留派により、日本棋院関西総本部が発足した。1953年(昭和28)年、第1期NHK杯争奪戦・第1回王座戦が開始された。1961年(昭和36年)、第1期名人戦が開始された(読売新聞)。1962(昭和37)年NHKテレビ囲碁対局が開始された。1971年(昭和46年)、東京・市ヶ谷に日本棋院・新会館が竣工した。1973年(昭和48年)年、日本棋院・中部総本部会館が竣工した。1976年(昭和51年)、第1期棋聖戦が開始された。同年、名人戦が読売新聞から朝日新聞に移行し、第1期名人戦開始。同年、第1期碁聖戦・第1期天元戦開始。1977(昭和52)年、週刊『碁』創刊。1979(昭和54)年、第1回世界アマチュア囲碁選手権戦開催。2003年(平成15年]]、大手合を廃止し、新昇段制度を制定した。2005年(平成17年)、日本棋院関西総本部、大阪梅田・阪急ファイブアネックスビルに移転した。2011年(平成23年)、公益財団法人に移行した。2014年(平成26年)、関西総本部は「大阪市北区茶屋町19-19」に移転し、梅田囲碁サロンを開館した(大阪市北区角田町1番12号)。

発行誌[編集]

機関誌として月刊「碁ワールド」、また年刊「囲碁年鑑」を発行している。入門者向け雑誌として「囲碁未来」、週刊誌として「週刊碁」がある。

歴代総裁[編集]

(注)総裁の空白期間:1947年 - 1952年, 1987 - 1993年, 1996 - 2004年

歴代理事長[編集]

(注)加藤正夫が2004年12月30日急逝したため、2005年の理事長は空席である。

参考文献[編集]