全日空機雫石衝突事故

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全日空機雫石衝突事故
全日空機雫石衝突事故

全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971年7月30日に発生した航空事故空中衝突)である。

岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸旅客機航空自衛隊戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が犠牲となった。1985年8月12日日本航空123便墜落事故が発生するまで、日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故であった。

事故の概要[編集]

衝突までの状況[編集]

1971年7月30日千歳空港午後0時45分発羽田行の全日空58便(ボーイング727-281 機体記号JA8329)は、折り返し当便となる全日空57便の到着がすでに45分遅れていたため午後1時25分に定時より45分遅れて地上滑走を開始し、午後1時33分に離陸した。

58便には、機長K.S.(当時41歳)、副操縦士T.K.(当時27歳)、アメリカ人航空機関士D.M.K.(当時30歳)、客室乗務員T.M.(当時22歳)、S.Y(当時24歳)、S.H.(当時23歳)、S.K.(当時23歳)の乗員7名と乗客155名が搭乗していた。

乗客のうち122名は団体旅行客で静岡県富士市吉原遺族会の北海道旅行団一行であった。また3人は旅行会社の添乗員であった。58便は函館NDBにジェットルートJ10Lで向かい、午後1時46分に通過した。この時の飛行高度は22,000ftであった。ここで高度を上昇しながら松島NDBに向けて変針し、札幌航空交通管制部管制所に「松島NDB通過は午後2時11分の予定」と通報した。ここから巡航高度を28,000ftに上昇し自動操縦で飛行していた。

一方、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊所属のF-86F戦闘機2機は、編隊飛行訓練のため有視界飛行方式による飛行計画で航空自衛隊松島基地を午後1時28分頃に離陸した。教官は訓練生に対し、離陸前に、訓練空域は盛岡であること、基本隊形(ノーマル・フォーメーション)、疎開隊形(スプレッド・フォーメーション)、機動隊形(フルイド・フォア・フォーメーション)および単縦陣隊形(トレール・フォーメーション)の訓練を行ったのち松島飛行場へ帰投し、自動方向探知機(ADF)による進入訓練を行う予定であること、編隊の無線電話の呼び出し符号はライラック・チャーリーであること、および訓練時間は1時間10分であることなどを指示したが、経路、高度については説明をしなかった。

訓練空域は、横手訓練空域の北部をその一部に含む臨時の空域(秋田県横手市付近)であり、松島派遣隊は、ジェット・ルートJ11Lの中心線の両側9km、高度25,000ft(約7,600m)から31,000ft(約9,500m)の間を飛行制限空域とし、やむを得ない場合を除き訓練飛行を禁止していた。

衝突[編集]

全日空機雫石衝突事故
全日空機雫石衝突事故

岩手県岩手郡雫石町付近上空で午後2時2分頃、東京方向へ190度の磁針度を取って飛行していた全日空58便機と、岩手山付近上空を編隊飛行訓練していた2機の自衛隊機のうち1機(航空自衛隊機体登録番号92-7932)が、高度約28,000ft(約8,500m)で空中衝突した。教官および訓練生、約30分後に現場を通過した航空機の操縦士の報告によれば、事故当時、雫石町上空は視界は良好で下層雲が少しある程度であった。

衝突の3分前、全日空機は、高度28,000ft(約8,500m)、真対気速度487kts/h(約902km/h)、機首方位189から190度で、接触時まで水平定常飛行を行っていた。

同じころ、教官機は高度約25,500ft(約7,800m)真対気速度約445kts/h(約824km/h)で右旋回を約180度行った後、約15秒直進して左旋回に移った。左旋回中に機の後ろ側、時計で6時半から7時の方向に、訓練機とそのすぐ後方に接近している全日空機を認め、直ちに訓練生に対し接触を回避するよう指示し、自らは訓練機を誘導する意図で右に旋回し、続いて左に反転し、墜落していく全日空機の下をくぐり抜けた。

また、同じころ訓練機は、教官機の右側後方約25度の線上約5,500ft(約1,650m)の距離の地点の上側約3,000ft(約900m)を飛行し、教官機の右旋回と同時に飛行要領に基づいて高度を上げ下げして教官機の後を追った。ついで教官左旋回に追従しようと旋回中に、教官からの異常事態の通信が入り、その直後自機の右側、時計の4時から5時(120度 - 150度)の方向至近距離に大きな物体を認め、直ちに回避操作を行ったが衝突した。

訓練機は左60度バンク機動により回避を実施したが、約2秒前(距離約500m)からでは既に手遅れであった。そのうえ全日空機の進行方向に訓練生が回避する形となってしまったため、訓練生機に全日空機が追いつく形で接近し、訓練生機の右主翼付け根付近に全日空機が水平尾翼安定板左先端付近前縁(T字尾翼のため、機体の最も上の部分にある)を引っかけるような形で追突したとされる。

全日空機にはコックピット・ボイス・レコーダーは装備されていなかったが、同機と千歳飛行場管制所、千歳ターミナル管制所および札幌管制区管制所との交信はすべて異常なく行われていた。全日空機が事故当時に135.9MHzで発信した音声が、付近を飛行中の航空機によっても傍受されており、これらの音声の分析により、コックピット内の状況が分析された。これによれば、操縦輪に備わっている全日空機機長のブームマイクの送信ボタンが、衝突7秒前から0.3秒間、衝突2.5秒前から衝突5.5秒後までの8秒間にわたり空押し(キーイング)されていることがわかった。操縦士は、送信ボタンの空押しにより発する搬送波が他の交信を妨害するため、意識的に空押しをすることは通常はない。これら送信ボタンの空押しを操縦輪の握り直しと捉えると機長の動作は次のように想定されるという。

  • 衝突7秒前(14:02:32.1~14:02:32.4):自己機の間近に訓練機を視認、あるいはそれ以前より視認していた訓練機が、予期に反し急接近してきたため、操縦輪を強く握る。
  • 衝突2.5秒前(14:02:36.5~14:02:44.8):訓練機が斜め前方に接近してきたため緊張状態となり、再度操縦輪を強く握る。衝突後は機体の立て直しを行う。
  • 衝突9秒後(14:02:48~14:02:54):機長は自機が操縦不可能であることを知り、次のような緊急通信を発する。「エマージェンシー(緊急事態)、エマージェンシー、エマージェンシー、アーッ!」(全日空機機長の最期の言葉)。

墜落[編集]

その直後、双方の機体はともに操縦不能になった。全日空58便についてはしばらく降下しながら飛行していた。のち、水平安定板と昇降舵の機能を喪失していたため、降下姿勢から回復できず速度が急加速し、音速の壁を突破したことにより約15,000ft(約5000m)付近で空中分解墜落、搭乗していた乗員乗客162名全員が死亡した。その時の音速の壁を突破した際のものと思われる衝撃音が盛岡市内の病院屋上など、墜落地から離れた場所でも確認されている。

衝突直後には大きな白い状の物が発生した事実を多くの者が目撃しており、写真撮影した者も複数いた。事故発生後の写真に関しては、毎日新聞社発行のサンデー毎日1971年8月15日発行の緊急特別号の表紙に、「全日空機 散る」 との見出しと併せ、空中で自衛隊機と全日空機が接触し、機体が空中分解後に全日空機が白いジェット燃料の白煙を曳きながら墜落してゆく瞬間の写真が掲載されている。 偶然近くの青森県上空を飛行していた東亜国内航空114便パイロットや、花巻上空を飛行していた全日空61便のパイロットが、58便からの状況を把握できず混乱した通信を傍受していたが、それもすぐに途絶えてしまった。なお、操縦士らは地面に激突して大破した機首の中で発見された。また機体が空中分解したため、事件現場の近傍で働いていたり通行していた者は後年の番組等で「音がして外を見たら、(胡麻)粒のようなものが落ちていた」と語った。乗客たちは安庭小学校のある西安庭地区を中心とした雫石町内の各地に58便の残骸とともに落下し、極めて凄惨な状況で発見された。この際、落下した旅客機の車輪の残骸が民家の屋根を貫通し、当時81歳の住民の女性が負傷した。

墜落の衝撃による火災はなかったため比較的早く犠牲者の身元が判明したが、遺体は高速で地上に叩き付けられため、極めて凄惨な状況を呈していたという。また遺体を検死していた警察犠牲者のうち1名を取り違えるミスをしたため、身元確認の精度について疑問が持たれることとなった。

一方の訓練生は、訓練機が接触後きりもみ状態になったため、射出座席装置のレバーを引こうとしたが機体回転に因る遠心力に打ち勝ってまで手をレバーへ動かすことができず、射出できなかった。しかし、キャノピー(風防)が離脱していることに気づいたため、安全ベルトをはずし機体から脱出後パラシュートで生還した。

全日空機と自衛隊機の残骸のほとんどは、東西約6km、南北約6kmの範囲に落下していた。全日空機の残骸は、左水平尾翼と垂直尾翼の一部を除いて、国鉄雫石駅の東2kmから3.5km、南3.5kmから5kmの範囲に落下した。訓練機の残骸は、右主翼以外は雫石駅の西約1kmの地点に、翼付根から先の右主翼は雫石駅の東1.3kmの地点に落下した。

裁判[編集]

本事件の裁判で争点とされた、あるいは問題となった点は次のとおりである。

  • 問題を論ずる前提としての、
    • 注意義務の内容
    • 注意義務の根拠
    • 可能性の程度と注意義務
    • 注意のメカニズム
  • 事実認定上の問題点
    • 接触時刻
    • 接触位置
    • 相対飛行経路
  • 一定空域への進入・訓練等の回避義務について
  • 見張り義務とその違反について
    • 航空機操縦者の見張り義務
    • 見張りの必要性の認識
    • 見張るべき範囲
    • 視認可能となる時間帯
  • その他の諸問題
    • 事故調査報告書の証拠能力
    • 民事判決における「責任制限」約款の効力

ここでは、このうち、事実認定上の問題についてのみおおまかに触れるにとどめる。

刑事裁判[編集]

自衛隊機の教官と訓練生が、事故発生後33時間後に岩手県警に逮捕され、業務上過失致死航空法違反で起訴された。

なお、航空法違反は「安全な飛行を怠った」とする83条に抵触したとするもので、この条文は個人法人の双方に責任が認定される可能性のあるものであった。過去に発生した日本の航空事故では、自衛隊機と全日空機が滑走路で衝突した全日空小牧空港衝突事故(1960年)で、逮捕起訴されたのは管制官のみで有罪判決となっているが、双方の操縦者は責任を問われていない。一方で検察が事故責任があると判断して全日空機仙台空港着陸失敗事故(1963年)と日本航空MD11機乱高下事故(1997年)では裁判の結果、無罪判決となっているほか、日東航空つばめ号墜落事故(1963年)では乗員が有罪となっている。これらは全て乗員が生存していた航空事故であるが、鉄道事故の場合は信楽高原鐵道列車衝突事故JR福知山線脱線事故では、死亡した運転士だけでなく、鉄道会社の運行管理者についても検察庁に書類送検されており、いずれの事故も後に法人としての事故責任を追及されている。

第一審の盛岡地裁1975年3月11日)は、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑判決を言い渡した。盛岡地裁は、全日空機の飛行経路については「管制上の保護空域内西側」を飛行していた、とし、衝突地点については、「本件全証拠によるもこれを確定することができ」ないし、証拠裁判主義の原則から強いて推論すべきでない、とした。また、弁護側は全日空機操縦者に過失があったと主張したが、裁判所は、被告人らに過失があったことを否定するものではないとし、さらに、信頼の原則についてもこれを要れる余地はないとしている。

第二審の仙台高裁(1978年5月9日)は、教官の控訴は棄却したが、訓練生に対しては一審判決を破棄し無罪を言い渡した。訓練生は、当日の臨時の訓練空域の位置・範囲も、ジェットルートJ11Lの経路も知らなかったため、機位確認義務の存在が認められず、さらに、全日空機は接触の29秒前からは訓練生の注視野外にあったため、結果の予見可能性がなく、したがって見張りの注意義務違反が認められないとされたからである。仙台高裁は、全日空機の飛行経路および接触地点については、事故調査報告書の推定に合理性があるとして事故調査報告書のとおりに認めた。

上告審で、被告人弁護側は海法泰治(2審検察側鑑定人)の鑑定書を根拠に「全日空機がジェットルートを大きく外れて飛行したため、自衛隊設定の訓練空域内で空中衝突した」として、教官の無実を主張した。最高裁1983年9月22日判決)は、教官に『見張り義務違反』があったことを認定したが、被告人に対する量刑は教官一人にのみ刑事責任を負わせており酷過ぎるとして、2審判決を破棄し懲役3年執行猶予3年の判決を下した。執行猶予を付けるために懲役3年に減軽したのである。

最高裁判決によれば、事故当日の経緯は次のようなものであった。

  • 松島派遣隊の飛行訓練準則は、飛行空域内に5か所の訓練空域を設定し、飛行訓練ごとにひとつを割り当てるのを原則としていた。
  • 事故当日の朝、割り当て予定だった訓練空域が第4航空団で使用されることがわかり、飛行班長補佐のC三佐は、飛行制限空域を考慮することなく臨時に訓練空域を設定した。
  • C三佐は飛行班長D三佐に、ジェットルートの記載のない100万分の1の地図を示して臨時訓練空域「盛岡」の設定を進言し、D三佐はそのまま承認した。
  • C三佐は主任教官E一尉にも同様に「盛岡」の設定を伝達した。
  • D三佐は飛行隊長F二佐に「盛岡」の設定を報告し、F二佐もそのまま承認を与えた。
  • E一尉は「盛岡」の正確な位置・範囲をまったく確認することなく、教官・訓練生に対して訓練空域の指示を行った。その際「盛岡」の具体的位置・範囲を指示・説明せず、特段の注意を与えることもしなかった。
  • 教官は「盛岡」との名称から、臨時訓練空域は盛岡あたりを指すと考えたが、ジェットルートJ11Lは盛岡市街あたりの上空をほぼ南北に通っているとの誤った認識のもとに、その西側で訓練を行えばよいと考えていた。

このような事情から最高裁は、減軽の理由として「航空路に隣接して訓練空域を設定したうえに、被告人らに特段の説明もなく」「杜撰な計画に基づく上官の命令による訓練」であり「被告人らは訓練命令を拒否できなかった」として、上司の自衛隊基地幹部の怠慢があったことを認定した。なお、事故当初は訓練命令を出した部隊長も捜査されたが、最終的に起訴が見送られ、上司の自衛隊幹部は誰も起訴されなかった。

民事裁判[編集]

乗客遺族による民事裁判は国を被告としたものが起こされており、たとえば死亡した大学助教授の妻子に対する損害賠償の請求訴訟では1974年3月1日に東京地方裁判所が4823万円の支払いを国に命じる判決を言い渡しているが、国側が控訴しなかったためそのまま確定している。

全日空側(全日空及び全日空に機体の保険金を支払った保険会社10社)が、国に対して国家賠償法第1条による損害賠償等を求める訴訟を提起したところ、国が全日空に対し民法715条に基づく損害賠償を求める反訴を提起し、全日空側と国側の双方が、互いに損害賠償を請求しあって争うことになった。全日空は事故による営業損失など18億円、保険会社は全日空に支払った全壊した旅客機の航空保険金25億円、国は事故で喪失した戦闘機と被害者遺族に「立て替えて」支払った賠償金など19億円をそれぞれ請求するものであった。

第一審の東京地裁(1978年9月20日判決)は、教官機は接触の44秒前から14秒前の間に全日空機を視認し、訓練生機に適切な回避操作の指示を与えれば、また、訓練生機は同44秒前から30秒前の間に全日空機を視認し適切な回避操作を行っていれば、事故の発生を十分回避でき、全日空機は同30秒前から10秒前の間に訓練生機を視認し適切な回避操作をしていれば事故の発生を十分回避できたと認定し、双方の過失を対比すると過失割合は6対4であるとした。そして、この過失割合に従い国は全日空へ2.7億円、保険会社に13.2億円を支払うよう命令し、全日空は国に7.1億円支払うよう命令した。

第二審の審議は双方の主張が鋭く対立したため判決まで10年以上かかった。東京高裁(1989年5月9日判決)は、1審よりも自衛隊の過失割合を厳しく認定し、国2、全日空1であるとした。これは『訓練空域設定自体に過失があり、自衛隊機も航空機ルートの間近で見張り義務を怠った、全日空機も衝突7秒前に決断すれば衝突を防げたのに回避措置をとらなかった過失があるが、ジェットルートの保護空域内であり過失の程度は小さい』と判示した。そのため、自衛隊(国)の過失が重いとされた。また、損害額の認定に当たって航空機がたとえ新品(事故機は就航3か月であった)であっても、使用した年数に応じて減価償却した金額であるべきとされた。なお、裁判では全日空機の機体損害額は22億0665万8377円であると認定されたが、既に航空保険金でそれ以上の支払いを受けたとして賠償請求権は消滅したとされた。そのうえで、東京高裁は国は全日空に7.1億円、保険会社に15.2億円、全日空は国に6.5億円を支払うように判決を下し、双方が控訴しなかったためそのまま確定した。

なお、東京高裁は、全日空機の飛行経路を事故調査委員会の認定よりもさらに西よりとし、空中接触地点については、駒木野地区矢筈橋西詰から北西へ1.5kmの雫石町西根の八丁野地区北側を中心とする半径1km以内とし、その西限はJ11Lの線上から西に約6.7km離れた地点でJ11Lの保護空域の範囲内であるとした。

事故原因[編集]

当時はまだ常設の航空事故調査委員会が設置されておらず、事故調査のため「全日空機接触事故調査委員会」が総理府に設置された。この全日空機接触事故調査委員会が1972年7月27日に運輸大臣に提出した事故報告書では、事故の原因は次のように発表された。

  • 第1の原因は、教官が訓練空域を逸脱してジェットルートJ11Lの中に入ったことに気づかず訓練飛行を続行したこと。
  • 第2の原因は、
    • 全日空操縦者にあっては、訓練機を少なくとも接触約7秒前から視認していたと推定されるが、接触直前まで回避操作が行われなかったこと。これは、全日空操縦者が接触を予測していなかったためと考えられる。
    • 教官にあっては、訓練生が全日空機を視認する直前に訓練生に対し行った接触回避の指示が遅く、訓練生の回避に間に合わなかったこと。これは、教官が全日空機を視認することが遅れたためと考えられる。
    • 訓練生にあっては、接触約2秒前に、事故機の右側やや下方に全日空機を視認し、直ちに回避操作を行ったが接触の回避に間に合わなかったこと。これは、訓練生が機動隊形の訓練の経験が浅く、主として教官機との関係位置を維持することに専念していて、全日空機を視認するのが遅れたためと考えられる。

また、事故報告書は、事故の背景として、航空交通の急速な発展に伴い種々の問題が発生していると指摘した。早急に法制度の整備と完全な実施を行うべしとしたのは次の5点である。

  • 航空機の姿勢をひんぱんに変更する特殊な飛行は、原則として航空交通管制区または航空交通管制圏では行えないよう法的に明確化すること。また、飛行訓練を行う際は訓練空域からの逸脱を防ぐため、訓練機の性質、訓練の形態および規模等に応じ必要な方策が講じられるよう措置すること。
  • 航空機の操縦者は、航空交通管制に従っていてもいなくても、飛行中は他の航空機と衝突しないように見張りをしなければならないよう法的に明確化すること。
  • 航空路、ジェット・ルートに対するポジティブ・コントロールの徹底を図るとともに、事故を防止する装置を開発、装備すること。
  • 航空保安業務に関して、運輸、防衛両省庁はなおいっそうの協調を図ること。
  • さらに、独立した事故調査委員会を常設すべきこと。

当時の国による航空管制はレシプロ機が飛行していた時代と基本的に変わっておらず、東北地方を覆域する航空路監視レーダーは設置されておらず、航空路管制は操縦士からの位置通報を元に地図盤上で識別し指示及び許可を与えるというノンレーダー管制が主流であった。そのうえジェットルートも1950年代にジェット機に比べ運航速度が低いレシプロ機旅客機を運航する前提で制定されてから変更されておらず、ジェット、プロペラが混在し大変危険な状態であり、また訓練空域を横断する航空路が設定されていた。

また戦後になって旅客機と戦闘機が空中衝突する事故がアメリカでは1950年代から1960年代にかけて続発していたが、日本においても1965年ごろからニアミスが続発していた。

いずれにせよ、事故調査報告書の勧告のとおり航空行政立ち遅れが事故の発端であり、現在の様に自衛隊レーダーサイトによる訓練支援、航空路監視レーダーによる航空路管制、訓練空域と航空路等の明確な分離、航空局と航空自衛隊間の演習訓練空域使用に関する連絡調整システムが確立されていれば起こり得なかった事故で、全日空及び自衛隊双方共に大変不幸な事故であった。この事故以降、同種の事故は現在まで発生していない。

事故のその後[編集]

慰霊の森

事故直後の1971年8月7日、政府の中央交通安全対策会議は、(1)自衛隊訓練空域と航空路を完全分離すること、(2)訓練空域は防衛庁長官と運輸大臣が協議して公示すること、(3)その域内を飛行するすべての航空機に管制を受けることを義務付ける特別管制空域を拡充すること、などを定める「航空安全緊急対策要綱」を発表した。

1975年6月24日には改正航空法が参議院で可決成立し、同年10月から施行された。この改正航空法には、(1)航空管制空域における曲芸飛行と訓練飛行の原則禁止、空港周辺空域における通過飛行の禁止と速度制限、特定空域の高度変更の禁止と速度制限、などの運航ルールの厳格化、(2)ニアミス防止のために見張りなど安全義務とニアミス発生時の報告義務、(3)トランスポンダフライトレコーダー等の安全運航に必要な装置の装着義務が明記された。そして、(4)これらの規制はそれまで適用されていなかった自衛隊機にも適用するものとした。

答申を受け、運輸省は航空路監視レーダー(ARSR)の導入を推進し、1991年6月に日本国内のほぼ全域を17基のレーダーでカバーし1基が故障しても他のレーダーでバックアップが可能なレーダー管制システムが完成した。また、空中衝突防止装置(TCAS)が開発され、日本国内を飛行する最大離陸重量5700kgを超えるか旅客定員19名以上のタービン機への装着が航空法で義務づけられた。

この事故の責任を取る形で、時の防衛庁長官増原惠吉が辞任。後任に西村直己が就いた。

有罪判決を言い渡された元教官は国家公務員法の規定により失職した。元教官は再審請求も辞退しパイロット職に復帰することもなかった(2005年8月逝去)。また、訓練生は最高裁判決後、戦闘機から救難機のパイロットに転向し、2003年10月に定年退職するまで人命救助の任務に当たった。

全日空機が墜落した現場は「慰霊の森」として整備され、三十三回忌に当たる2003年まで同所で毎年慰霊祭も開催されていた。現在でも地元住民や全日空社員によって大切に維持されている。全日空機の部品は、2007年1月19日から、同社の研修施設内(東京都大田区)に全日空松山沖墜落事故など他の人身死亡事故の残存する遺品や資料を保存・展示して社員の安全教育を行う「ANAグループ安全教育センター」で公開されている。センターでは事故現場近くで回収した部品のほか、垂直尾翼下のエンジン空気取入口の一部や、胴体側面のジュラルミン製外板など、雫石事故のものは入り口からすぐの位置に展示されている。なお、2006年8月、墜落現場から数百メートル離れた急斜面に窓枠や座席など事故機の部品10点近くが埋まっているのが発見され、全日空社員によって回収された。

備考[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 柳田邦男「航空事故」 中央公論社(現中央公論新社1975年
  • デビッド・ゲロー「航空事故」(増改訂版)イカロス出版 1997年
  • 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院出版、2002年
  • 特定非営利活動法人災害情報センター編『鉄道・航空機事故全史』 日外選書Fontana シリーズ 2007年
  • 財団法人航空交通管制協会 「航空管制50年史」 2003年
  • 日本航空宇宙学会誌 第21巻 第237,238号 全日本空輸株式会社ボーイング式 727-200 型, JA8329 および航空自衛隊 F86 F-40 型, 92-7932 事故調査報告書 / 全日空機接触事故調査委員会
  • 佐藤守『自衛隊の「犯罪」-雫石事件の真相!』(青林堂)ISBN 4861992370

関連項目[編集]

外部リンク[編集]