羽根田弥太

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羽根田 弥太(はねだ やた、1907年-1995年1月30日)は、日本の生物学者発光生物の研究で知られる。太平洋戦争中、日本軍占領下のシンガポール昭南博物館に勤務。戦後、館長を務めた横須賀市博物館を、シンガポール博物館植物園にならい、研究機能を有し、附属自然教育園を有する施設に整備した。[1]

経歴

戦前

戦後

  • 日本の無条件降伏の際に、羽根田の書類や研究ノート類は(なぜ?)全て焼かれた[4]
  • 復員後、慈恵医大の矢崎芳夫の勧めで横須賀市の技師となる[7]
  • 1950年から1952年にかけて、昭南博物館時代に同僚となっていた魚学者のバートウィッスルによって英訳されていたため焼却を免れた発光魚に関する論文が、『ハワイ大学紀要(en:Pacific Science)』に4回に分けて掲載される[8]
  • 1954年、バートウィッスルの紹介により、第1回発光生物国際会議に招待され、これを契機に国際的に活動するようになる[4]
  • 1955年9月、前年に開館した横須賀市博物館の館長に就任[9]
    • 同博物館は昭南博物館の英国式の運営にならい、展示だけでなく、研究活動も行なう博物館として運営された[10]
    • 1959年に開園した博物館付属馬堀自然教育園、1965年に博物館の附属施設となった天神島臨海自然教育園は、シンガポール博物館・植物園附属の森林特別保護区をモデルとしていた[11]
  • 1959年4月から1年間、アメリカ科学財団の援助により、ウッズホール海洋研究所プリンストン大学の交換研究員として渡航[12]
  • 1966年、相模貝類同好会の設立を呼びかける[13]
  • 1974年3月末、横須賀市博物館の館長を退職[14]
  • 1995年1月30日に死去、享年88[15]

著書・論文

著書

  • 羽根田(1985) 羽根田弥太『発光生物』恒星社厚生閤、1985年
  • 羽根田(1972) -「発光生物の話:よみもの動物記』北隆館、1972年

論文

  • 羽根田(1995) -「遺稿 発光生物の話」『全国ホタル研究会誌』no.28、1995年、pp.8-10
  • 羽根田(1989) -「馬堀自然教育園設置のいきさつ」『横須賀市博物館報』no.36、1989年、p.2
  • 羽根田(1971) -「横須賀市博物館新館の完成」『横須賀市博物館雑報』no.16、1971年、pp.1-6
  • 羽根田(1956b) -「細谷翁の逝去」『横須賀市博物館雑報』no.2、1956年、pp.11-12
  • 羽根田(1956a) -「畑井・新谷両先生をかこんでの座談会」『横須賀市博物館雑報』no.2、1956年、pp.2-5

脚注

  1. この記事の主な出典は、瀧端(2004)および小田部(1988)pp.167-169。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 小田部(1988)p.168
  3. シンガポール市政会(1986)p.210
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 瀧端(2004)p.3
  5. 小田部(1988)p.168、シンガポール市政会(1986)p.210
  6. 小田部(1988)pp.168-169
  7. 瀧端(2004)p.4
  8. 瀧端(2004)pp.3-4
  9. 瀧端(2004)p.5、小田部(1988)p.169
  10. 瀧端(2004)p.4、小田部(1988)p.169
  11. 瀧端(2004)pp.10-11
  12. 瀧端(2004)p.9
  13. 瀧端(2004)p.13
  14. 瀧端(2004)p.11
  15. 全国ホタル研究会(1995)p.1-2

参考文献

関連文献