大谷吉継

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大谷 吉継(おおたに よしつぐ、永禄2年(1559年) - 慶長5年9月15日1600年10月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将豊臣家家臣。官位官職は従五位下刑部少輔。幼名は桂松(慶松)。通称は紀之介、平馬、大谷刑部。別名は吉隆。

父は大谷吉房大谷盛治とも)。母は東殿。兄弟は妹2人(徳(下間頼亮室)とこや(北政所侍女、御倉番))。子に吉治(吉勝)、木下頼継泰重、娘、または姪(竹林院真田信繁室)ら(ただし吉治は養子、頼継は甥の説もある)。

豊臣秀吉に仕えた家臣で、主に奉行・官僚として行政に手腕を発揮した。武略にも秀でており小田原征伐朝鮮出兵にも参加したが、後者の参戦の際に病に倒れる(ハンセン病か?)。以後、表舞台からは一線を退き、白い頭巾で顔を覆い隠していたと伝わる。秀吉没後は石田三成と共に豊臣家を守護するべく西軍の首脳のひとりとして奮戦するが、関ヶ原の戦いにおいて戦死した。

生涯[編集]

出生[編集]

吉継の出自には諸説がある。豊後大友宗麟の家臣・盛治の子とされる説だが、これは『名将言行録』に記録されている。ただ同書によると「大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」とある。大友家が滅びたのは文禄元年(1593年)で、宗麟の家臣に大谷盛治という家臣は確認されていないため、この説はあまり信用が置けない[1][2]

他の説として近江小谷、現在の滋賀県伊香郡余呉町大字小谷を出身とする説[2]。この場合は父は大谷吉房という[2]

また吉継には誕生秘話もある[2]。吉継の父親は子宝に恵まれず、八幡神社に子宝を祈願した[2]。ある夜「社前に跪き、松の実を拾い、これを服せよ」との神託があり、男子が誕生した[2]。神威を尊び、慶松(桂松)と命名したという[2]

秀吉仕官[編集]

秀吉に仕えたのは、秀吉が織田信長の命令で毛利輝元を攻めていた中国方面総司令官時代だと思われ、秀吉が播磨平定を目指して姫路城にいた時に石田三成を通じて秀吉に仕官したとされる(『姓氏家系大辞典』『敦賀市通史』)。秀吉が播磨平定を着手しだしたのが天正6年(1578年)頃であるため、吉継は20歳頃に秀吉に仕官したという事になる。ただし天正5年(1577年)10月19日、「大谷平馬」の名で「羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」で馬廻として登場する(『武功夜話』)ため、吉継が秀吉に仕えたのは19歳の時と見る事もできる[3]

天正6年(1578年)5月4日、秀吉が毛利輝元に包囲された尼子勝久山中鹿介らの立て籠もる播磨上月城を後詰した際、吉継は杉原家次一柳直末尾藤知宣神子田正治中村一氏らと共に従軍した(『武功夜話』)。しかし毛利の軍勢は大軍で助ける事はできず、信長から別所長治が籠城する三木城の攻略に集中せよとの命令も下ったため、秀吉は上月城の後詰を断念して三木城攻めに専念した[3]。三木城攻撃中の10月15日、秀吉は平井山で観月の宴を催したが、この宴に吉継は福島正則羽柴秀長蜂須賀正勝浅野長政生駒親正竹中重治藤堂高虎山内一豊仙石秀久加藤清正脇坂安治ら30余名と共に参列している(『武功夜話』)。天正10年(1582年)4月27日、秀吉が備中高松城を攻めた際、吉継は福島正則、脇坂安治、増田長盛一柳直盛らと共に馬廻として従軍した(『武功夜話』)。

出世[編集]

天正10年(1582年)6月に織田信長が本能寺の変明智光秀のために死去。その光秀も秀吉に討たれて次の天下人として秀吉が台頭してゆく。その秀吉の前に織田家筆頭家老の柴田勝家と対立。天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いが起こると、吉継も参加した。この際、近江長浜城に籠もる勝家の甥で養子の柴田勝豊を吉継が調略して寝返らせたと伝わる。また『一柳家記』によると吉継は石田三成と共に素晴らしい働きをしたと記録されている[4]

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、秀吉の家臣12名も任官したが、この中に吉継も含まれており従五位下刑部少輔に叙任された[4]。天正15年(1587年)の九州征伐では石田三成と共に兵站奉行として兵糧の手配等にあたる。

天正17年(1589年)9月25日に越前敦賀城主・蜂屋頼隆が病死し、嗣子が無かったため蜂屋家は断絶した[5]。秀吉は後釜の敦賀城主に吉継を任命し、知行は5万石を与えた[5]。敦賀城主就任の月日は不明であるが、12月に西福寺に宛てた吉継の禁制が確認されているため、9月から12月の間である事はわかっている[5]

同年、秀吉と北条氏政氏直父子の関係が決裂する。吉継は11月初旬、秀吉の使者として駿河徳川家康の下に派遣され、小田原征伐の了承を家康から得た[6]。翌年から開始された小田原征伐では吉継は秀吉に従軍し、石垣山城長束正家、増田長盛らと共に築城を担当した[6]。5月27日、秀吉の命令で吉継は三成や正家、さらに佐竹義宣宇都宮国綱多賀谷重経結城晴朝水谷勝俊佐野房綱関東の諸軍を率いて出陣し、上野館林城武蔵忍城攻めなどに参加した[7]

7月、氏政が切腹して北条家が滅亡する。7月17日に秀吉が会津に向かって出陣すると、吉継は軍監として従軍した[8]。8月1日、吉継は秀吉より横目(監視)に命じられ、上杉景勝出羽庄内3郡(山形県東田川郡西田川郡飽海郡)の検地を命じた[9]。この際の出羽の検地は吉継から出された「出羽国御検地条々」に基づいて検地奉行や代官らに指示されている[10]。この検地の最中である10月25日、検地に反対する地下人により出羽仙北・由利・庄内で一揆を起こしたため、吉継は景勝と協力して一揆の拠点である川連城尾浦城を攻略して一揆を鎮圧した(仙北一揆)。鎮圧後の天正19年(1591年)3月11日、吉継は上杉家の家臣・色部長真に対して検地に関する協力を謝す書状を出している[11][12]

秀吉の過酷な奥州仕置に対して奥州の旧領主やその旧臣らが反乱を起こした。また、陸奥南部信直の家臣・九戸政実が反乱を起こし、窮した信直は秀吉に救援を要請した(九戸政実の乱)。このため、秀吉は甥の豊臣秀次を総大将に上杉景勝、石田三成、井伊直政ら6万の大軍を送って奥州再仕置を図った。この際、吉継は景勝の軍監として出羽口から胆沢(山形県胆沢郡)・和賀(和賀郡)へ進撃している[13]

天正20年(1592年)1月5日から秀吉の命令で朝鮮出兵が開始される。吉継は2月20日、敦賀の兵1200人を率いて京都を出陣し、肥前名護屋城に向かった[14]。吉継の陣所は名護屋城の東南約1キロの名護屋浦に面した魚見崎にあった[15]。また秀吉の命令で三成、長盛らと共に船奉行として船舶の調達、武器や兵糧の輸送に当たった[15]。同年6月30日には督戦の奉行(軍監)として朝鮮に渡海した[15]。7月16日に吉継は京城に達し、8月10日の諸大名による作戦会議にも奉行として参加した[15]文禄2年(1593年)からはとの和睦交渉に当たり、明の使者である徐一貫沈惟敬らを伴って5月15日に名護屋に帰還している。明への講和条件を示した文書に吉継は三成、長盛、小西行長と共に署名している[15]

しかしこの頃から業病に倒れて次第に病状は重くなり、奉行職や外交官としての職務遂行も難しくなった。このため吉継は日本に帰国して奉行職を自ら退き、領国の敦賀に半ば隠居するようになった。だが秀吉からは引退までは許されなかった。

慶長2年(1597年)9月14日、秀吉一行を自らの屋敷に招いて豪勢な饗応を行ない、5万石の小大名とは思えない多数の贈物をして周囲を驚かせた。慶長3年(1598年)に秀吉が死の床についた際、秀吉の遺物である国行の刀を受領した。

関ヶ原[編集]

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去すると、次の天下人の座をめぐり五大老筆頭の徳川家康が台頭する。吉継は秀吉生前に既に一線を退いていたため、三成のように家康と対立はせず、家康に好意的な中立を保っていた。豊臣政権は秀吉没後から2年の間に前田利家の病死、加藤清正や福島正則ら武断派七将による三成襲撃と三成の奉行職退任と佐和山城蟄居、家康の娘や養女らを伊達政宗らと無断で婚姻させるなどにより既に屋台骨は揺らいでいた。そのような中で五大老で会津領主の上杉景勝直江兼続主従は領内で軍備を増強したり浪人を大量に雇ったりして公然と家康に反逆する態度を露骨にしだした。家康は景勝を懐柔するため、使者や書状を送ったりしたが、この際に吉継も家康の意を受けて上杉家に書状を送って仲介を務めている。だが吉継の仲介も甲斐なく、上杉家は直江状を家康に送りつけ、家康は会津征伐を開始。

吉継は会津征伐に参加するため、兵1000人を率いて敦賀を出陣するが、7月2日に美濃垂井(岐阜県不破郡垂井町)に着陣[16]。ここで吉継は使者を佐和山城の三成の下に送り、三成の嫡子・重家を同陣させる事を勧めた[16]。それに対して三成は樫原彦右衛門を急使として吉継の下に送り、佐和山への来訪を求めた。吉継は応じて佐和山に赴くが、ここで三成から家康打倒の謀議を打ち明けられた[16]。吉継の答えは「虎を千里の野に放つなり、事を挙ぐるに、必ず成ることは能はず」であった(『名将言行録』)。つまり家康が既に会津征伐のために江戸城へ帰還しており、討つ機会を逃がした、まさに虎を千里の野に放ってしまったと同じで、今となっては挙兵しても犬死するだけだ、というわけである。吉継は挙兵を断念させようと説得したが、三成の気持ちを変えることはできなかった。吉継は勝算が極めて薄いことを知りながら「勢既にここに至る。之を如何ともすることなし、貴殿と死を同くせんのみと言て、是より専ら三成の謀主となり、ここに於て名を吉隆と改む」と挙兵に同意したという(『名将言行録』)。

吉継は横柄で上下に人望の無い三成が総大将では兵が集まらないと考え、毛利輝元や宇喜多秀家を立ててその下ででしゃばらないようにしなければならないと説いた(『落穂集』)。また三成は知恵や才覚においては天下に並ぶ者は無いが、武将としての勇気や決断力が無いとして気をつけるように説いている(『落穂集』)。7月11日、吉継は三成、安国寺恵瓊と密議をして、毛利輝元を総大将、宇喜多秀家を副将にして家康打倒の挙兵をする事を決した[17]。7月27日、吉継の娘婿・真田信繁とその父の真田昌幸から西軍に味方する旨の書状が届けられた[18]

吉継は北陸道(北国口)の総大将として木下勝俊平塚為広小川祐忠朽木元綱赤座直保、脇坂安治、戸田重政 (勝成) らを率いて出陣し、東軍についた加賀前田利長を牽制しようとした。8月下旬、越前北庄に在陣していた吉継の下に三成から関ヶ原への移動を求める急報が届き、吉継は小松城丹羽長重北庄城青木一矩を入れて守備を固め、9月3日に残余の軍を率いて関ヶ原西南の山中村(岐阜県不破郡関ヶ原町山中)に布陣した[19]

9月15日の関ヶ原本戦では吉継の部隊600は平塚・戸田ら1500と共に藤古川台に布陣し、嫡子の吉治2500と次男の木下頼継1000は藤古川の中仙道沿いに布陣させ、さらに松尾山の小早川秀秋の裏切りに備えて赤座・小川・脇坂・朽木ら4200を配した[20]。本戦当日、吉継らの部隊は東軍の京極高知藤堂高虎らの攻撃を受けたが撃退する[21]。この時の吉継は両目はほぼ病気で失明していて歩行もできず、練絹の小袖の上に墨で蝶を描いた鎧直垂を着て、頭から顔を白布で包み、竹輿に乗って采配を振るったという[21]。しかし激闘4時間もして、吉継の部隊もさすがに疲労が目立ちだす[21]。正午過ぎ、傍観を決めていた松尾山の小早川秀秋が裏切りを起こし、吉継の部隊に攻撃を仕掛けてきた[21]。小早川の軍は1万5000。さらにその裏切りを予見して配置していた脇坂らも裏切って吉継の部隊を攻撃してきた[21]。そしてそこに藤堂・京極・織田長益ら東軍の部隊も攻撃してきた[21]。元より寡兵の大谷軍は「士卒皆其恵に懐き、敢て離叛する者なし、其敗るるに及びて、決然として自屠し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり」と誰1人として戦線から離脱する者なく、一歩も引かずに吉継の指揮に従い、勇猛果敢に戦ったという(『名将言行録』)。この時、吉継は死を覚悟していたのか、平塚為広と辞世の交換をした、と『常山紀談』に記されており、為広が「名のために捨つる命は惜しからじ、つひにとまらぬ浮世と思へば」という一首に対し、吉継は「契りあらば六(むつ)の巷にしばし待て、おくれ先立つ事はありとも」と返したという。

こうして裏切りの小早川・脇坂らに加えて藤堂ら東軍諸軍にも攻められて大谷吉継は腹を十文字にかき切って果てた[22]。享年42[22]。介錯したのは家臣の湯浅五助であった[22]。また吉継軍も「兵士五助等以下二百五十余人、皆敵軍に進入して悉く之に戦死せり」とあるように全員玉砕したという(『名将言行録』)。

吉継の墓は関ヶ原町山中の「宮の上」に家臣の湯浅五助の墓と共にある[23]。また吉継の墓の前に石碑「史蹟関ヶ原古戦場大谷吉隆墓」が、吉継の墓の左手上に吉継の顕彰碑「大谷刑部少輔吉隆碑」がある[23]。法名は渓広院殿前刑部卿心月白頭大禅定門[22]。吉継の供養塔は福井県敦賀市栄新町永賞寺にあり、首塚は滋賀県坂田郡米原町下多良にある[24]

脚注[編集]

  1. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、10頁
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、11頁
  3. 3.0 3.1 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、14頁
  4. 4.0 4.1 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、17頁
  5. 5.0 5.1 5.2 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、19頁
  6. 6.0 6.1 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、23頁
  7. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、24頁
  8. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、25頁
  9. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、26頁
  10. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、27頁
  11. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、28頁
  12. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、29頁
  13. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、30頁
  14. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、31頁
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、32頁
  16. 16.0 16.1 16.2 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、39頁
  17. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、41頁
  18. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、43頁
  19. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、44頁
  20. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、46頁
  21. 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 21.5 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、48頁
  22. 22.0 22.1 22.2 22.3 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、49頁
  23. 23.0 23.1 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、51頁
  24. 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、52頁

参考文献[編集]