「南満州鉄道」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(新しいページ: '{{基礎情報 会社 |社名 = 南満州鉄道 |英文社名 =South Manchuria Railways |ロゴ = |種類 = 特殊会社 |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN1889}} ...')
 
(「南満州鉄道」の保護を解除しました: 不当な長期保護)
 
(3人の利用者による、間の4版が非表示)
(相違点なし)

2020年1月14日 (火) 20:40時点における最新版

南満州鉄道
South Manchuria Railways
種類 特殊会社
市場情報
略称
本社所在地 テンプレート:JPN1889 (租借地) 
関東州大連市東公園町30
電話番号
設立 1906年
業種 陸運業
事業内容 旅客鉄道事業、貨物鉄道事業
代表者
資本金 2億円(設立時)→14億円(1940年
売上高
総資産
従業員数
決算期
主要株主 大日本帝国政府(50%)
主要子会社 華北交通大連都市交通満州航空昭和製鋼所
関係する人物 後藤新平中村是公山崎元幹十河信二島安次郎
外部リンク
特記事項:満州国成立以降は新京特別市に設置された本部が事実上の本社
大連の満鉄本社
初代総裁・後藤新平

南満州鉄道株式会社南満洲鉄道株式会社、みなみまんしゅうてつどう、通称 満鉄、英称: South Manchuria Railways Co.)は、日露戦争後の1906年明治39年)に設立され、1945年昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで満州中国東北部)に存在した日本特殊会社である。

鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。本社は関東州大連市であるが、のちに満州国が成立すると満州国首都の新京特別市に本部が置かれ、そちらが事実上の本社となった。また東京市麻布区麻布狸穴町[1]に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。

設立経緯[編集]

旧満鉄本社(2007年10月)
大連市内にある満鉄旧址の石碑
大連大広場。満鉄は沿線に近代的都市計画による都市建設を行なった。
大連市内に現存する満鉄の社紋(「M」とレール断面の意匠)入りのマンホールの蓋。満鉄は上下水道や電力・ガスなど都市インフラに関わる事業も行なっていた。
満鉄が営業した大連ヤマトホテル。現在も大連賓館として当時の建物で営業されている。
撫順炭鉱の経営も満鉄が行なった。

南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年に設立した半官半民の特殊会社である。

日露戦争(1904年-1905年)の勝利により、ポーツマス条約の結果ロシア帝国から譲渡された東清鉄道南満州支線長春 - 大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道安奉線(安東(現・丹東) - 奉天(現・瀋陽)間)とその付属地の経営が当初の設置目的であった。当初はアメリカの実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンが資本参入し、桂・ハリマン協定により日米共同経営が予定されていたが、外務大臣の小村寿太郎から反対し、日本単独資本となった。

初代総裁には台湾総督府民政長官として植民地行政に実績を挙げていた後藤新平が就任した。後藤は満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉により満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することを時の首相、西園寺公望に飲ませている。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することも認めさせた。

活動概要[編集]

午前八時主義[編集]

後藤は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代、40代の若い優秀な人材を理事はじめ要職にスカウトした。三井物産の門司支店長から抜擢された犬塚信太郎に至ってはまだ32歳であったが人物・識見を買われ理事となった。

多様な事業展開[編集]

満鉄は単なる鉄道会社ではない。日露戦争中に児玉源太郎後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」には「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあり、それを具現したのが満鉄なのである。

満洲を中心とした鉄道経営のみに留まらず、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜ホテルヤマトホテル)などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクとして知られた。

後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円を調達し、これらの事業を進めた。

鉄道付属地行政[編集]

南満州鉄道附属地 も参照 また、ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられており、地方部のもとで大規模な近代的都市計画大連奉天長春のちの新京など。)を進めた。上下水道電力ガスの供給、さらには港湾学校病院図書館などのインフラストラクチャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。

標準軌への改軌[編集]

レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1067mm)の狭軌に改築していた。これを、政府の命令書により中国や朝鮮などに合わせて4フィート8.5インチ(1435mm)の国際標準軌間に改築しなければならなかった。1908年には大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。

政党の介入と社員の抵抗[編集]

1912年12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭される。立憲政友会出身の内務大臣原敬の差し金であった。総裁に政友会系鉄道官僚・野村龍太郎、そして副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が送り込まれた。これ以来、満鉄幹部のポストは政党の利権の対象となり、社員と激しく対立することもしばしば生じた。伊藤大八はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、創立以来の理事であった犬塚信太郎が強硬に抵抗した。その結果、犬塚と野村、伊藤はいずれも株主総会で更迭された。

1918年原敬内閣が成立すると、原は1919年4月、理事長・国沢新兵衛を更迭し、社長に再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一を抜擢した。

中西は塔連炭坑と内田汽船を異常に高い値段で買収した。塔連炭坑は政友会の幹部・森恪が経営していた。内田汽船も政友会系の人物が経営していた。炭坑や汽船を満鉄に売りつけた代金は政友会の選挙資金に充てられた(満鉄疑獄事件)。野党・憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村社長と中西副社長に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した。中西は逮捕・起訴されるが、控訴審で無罪となる。

こうした度重なる政党の介入に対し、社員は団結し、1927年、社員会を結成する。

張作霖爆殺事件と満洲事変[編集]

張作霖爆殺事件 を参照 昭和に入ると、満鉄は相次いで関東軍の陰謀の舞台となる。

1928年6月4日、満鉄の車両が奉天付近で爆破され、乗っていた奉天派軍閥の領袖、張作霖が死亡した。これが張作霖爆殺事件であり、中国人の犯行に見せかけた関東軍の陰謀であった。結果は失敗に終わり、首謀者・河本大作陸軍大佐は予備役に編入される。(後に河本は満鉄の理事になる。)

1931年9月、満鉄の柳条湖付近の線路の爆破事件(柳条湖事件)は、満州事変の発端となった。関東軍高級参謀・板垣征四郎、同参謀・石原莞爾らの陰謀であったが、当時満洲を支配していた張学良と戦闘状態に入り、圧倒的な軍事的勝利により、満洲全土を関東軍の支配下に置くことに成功した。

当時、総裁内田康哉以下の満鉄首脳は事変の不拡大を望んでいたが、理事の中でただ一人事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が関東軍司令官・本庄繁と面談すると、急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することになる。この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わることを余儀なくされる。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入ることとなった。

北満鉄道買収と営業キロ数の伸び[編集]

鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連旅順間の満鉄本線安奉線のほかに、満洲国が1935年ソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・東清鉄道)をはじめとする満州国有鉄道国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転している。

特急「あじあ」[編集]

満鉄のシンボル、特急「あじあ」

1934年11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急あじあが設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hをはるかに上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシ型」がこれを牽引した。1935年には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。

鉄道付属地の返還[編集]

しかし、満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年に満洲国に返還された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。

満鉄改組[編集]

満洲事変以来、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移る。また満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。こうした勢力は、満州国の経済における満鉄の独占的地位をよしとしなかった。1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満州重工業開発(満業)に譲渡し、鉄道と炭鉱部門および調査部門に特化することになった。

こうしたなか、総裁松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門を強化するが、1942年1943年の二度に亙る「満鉄調査部事件」(満鉄調査部の研究者が左翼的であるとして大量に検挙された)により、調査部門も活力を失った。

子会社の東亜勧業満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なった。代替地を用意せず、只同然の補償金で先住中国人を強制的に立ち退かせた。

消滅とその後[編集]

この辺りの事情は山崎元幹の項も参照

満洲近代化においての満鉄の影響は大きかったが、1945年日本の降伏の直前に満洲に侵攻したソビエト連邦軍に接収され、その施設は同年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管される。一方、GHQによりポツダム宣言受諾にともなう閉鎖機関令が公布され、満鉄は同年9月30日に遡って閉鎖されたものとされた。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたので、清算は1957年までかかった。

満鉄は消滅したものの、現地の鉄道輸送の人員や技術者は不足しており、旧満鉄社員の多くは中華民国政府の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これを留用という。留用は1948年まで続いた。彼らの留用による成果として、宝鷄 - 蘭州間の天蘭線開通が挙げられる。また、大村卓一は満鉄総裁を務めた罪で、中国共産党軍に逮捕され、獄死している。

満鉄が満洲に残した各種インフラは、日本が撤退し、その後勃発した国共内戦の結果として中華民国から中華人民共和国へ政体が変わった後も、東北部を経営する際にも大きく役立っており、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、付近で発見された大慶油田と共に、国内が不安定であった中華人民共和国の経済を支え続けた。

長春(旧・新京)や大連瀋陽(旧称・奉天)といった主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数目にすることが出来る。満鉄関連の建物も現在でも多くが修復されながら現在も使われており、たとえば満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しており、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などに名前を変えて営業を続けている。

なお、元満鉄に関係のある者を中心とし、満洲に関係のある帰還者、未帰還者およびその家族等の援護厚生を図ることを目的として、財団法人満鉄会1954年11月25日に設立された。旧満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行っている。

満鉄各線で活躍した車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働しているが、老朽化などの理由で、徐々に廃車、静態保存などが進んでいる。

資本金[編集]

  • 設立時 - 2億円。うち1億円は政府の現物(鉄道施設とその付属物)出資。
  • 1920年 - 4億4千万円(第1次増資)
  • 1933年 - 8億円(第2次増資)
  • 1940年 - 14億円(第3次増資)

関連企業・団体[編集]

経営路線[編集]

満州国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)

1945年8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)[2]

凡例 : [貨] 貨物線

社線[編集]

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
連京線 大連 - 新京 701.4 本線 (開業 - 1921年7月20日)
満洲本線 ( - 1925年3月31日)
連長線 ( - 1932年10月31日)
大連埠頭 - 沙河口 [貨] 6.9 通称「埠頭線」
大連 - 吾妻 [貨] 2.9 通称「吾妻線」
安奉線 安東 - 蘇家屯 260.2
入船線 [貨] 沙河口 - 入船埠頭 5.8
旅順線 周水子 - 旅順 50.8
柳樹屯線 大房身 - 柳樹屯 5.8 休止線
甘井子線 [貨] 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 11.9
金城線 金州 - 城子 102.1
営口線 大石橋 - 営口 22.4
煙台炭礦線 煙台 - 煙台炭礦 15.6 非営業線
撫順線 蘇家屯 - 撫順 52.9
渾楡連絡線 [貨] 渾河 - 楡樹台 4.1

北鮮線[編集]

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
北鮮西部線 上三峰 - 南陽 36.0 図們線(朝鮮総督府鉄道
北鮮東部線 図們 - 雄基 147.3 図們線(朝鮮総督府鉄道)
雄羅線 雄基 - 羅津埠頭 18.2
南羅津線 [貨] 羅津 - 南羅津 3.0

国線[編集]

満州国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
奉山線 奉天 - 山海関 419.6 奉山鉄路
奉裕連絡線 [貨] 奉天 - 裕国 17.5
于洪連絡線 [貨] 于洪信号所 - 大成信号所 4.6
皇姑屯連絡線 [貨] 皇姑屯 - 北奉天 2.8
高新線 高台山 - 新立屯 60.6
大鄭線 大虎山 - 鄭家屯 366.2 奉山鉄路(大虎山-通遼)
鉄路(通遼-鄭家屯)
新義線 新立屯 - 義県 131.5
河北線 子 - 河北 91.1 奉山鉄路
錦古線 錦県 - 古北口 542.3 奉山鉄路(錦県-口北営子)
北票線 金嶺寺 - 北票 17.9 奉山鉄路
葉峰線 葉柏寿 - 赤峰 146.9
壺蘆島線 錦西 - 壺蘆島埠頭 12.1 奉山鉄路
奉吉線 奉天 - 吉林 447.4 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮)
吉海鉄路(朝陽鎮-吉林)
瀋陽連絡線 [貨] 奉天 - 瀋陽 10.7
将軍堡連絡線 [貨] 撫順 - 将軍堡信号所 3.6
撫順城連絡線 [貨] 撫順 - 撫順城 4.5
梅輯線 梅河口 - 満浦 255.5
新通化線 通化 - 新通化 4.2
大栗子線 鴨園 - 大栗子 112.3
平梅線 四平 - 蓮河 149.2 瀋海鉄路(西安-蓮河)
京図線 新京 - 図們 528.0 吉長吉敦鉄路(新京-敦化)
敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺)
龍豊線 龍潭山 - 大豊満 22.4
金珠線 江北 - 金珠 18.8 吉林鉄道(新吉林-金珠)
小新連絡線 [貨] 小姑家 - 新站 9.1
朝開線 朝陽川 - 上三峰 60.6
和龍線 龍井 - 和龍 61.1
合水連絡線 [貨] 萱穂信号所 - 合水信号所
図佳線 図們 - 佳木斯 580.2
佳木斯埠頭線 [貨] 佳木斯 - 佳木斯埠頭 3.6
興寧線 新興 - 城子溝 216.1
汪清連絡線 [貨] 汪清 - 小汪清 9.0
虎林線 林口 - 虎頭 335.7
恒山線 寧 - 恒山 12.4
拉浜線 樹 - 拉法 265.5
煤窰線 舒蘭 - 煤窰 30.4 吉林鉄道
京浜線 新京 - 哈爾浜 242.0 北満鉄路
浜洲線 哈爾浜 - 満洲里 934.8 北満鉄路
浜綏線 哈爾浜 - 綏芬河 546.4 北満鉄路
開道廻線 亜布洛尼 - 横道河子 59.2
香坊連絡線 [貨] 香坊 - 東門信号所 5.1
東門連絡線 東門信号所 - 新香坊 6.2
下城子 - 西 103.4 穆稜鉄路(下城子-梨樹鎮)
綏寧線 河西 - 東寧 91.1
浜江線 哈爾浜 - 三 8.8 北満鉄路(哈爾浜-浜江)
樹埠頭線 [貨] 浜江 - 三 4.0
哈爾浜埠頭線 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 2.9 北満鉄路(哈爾浜-八区)
江南連絡線 [貨] 太平橋 - 江南信号所 2.2
浜北線 樹 - 北安 326.1 呼海鉄路(新松浦-海倫)
海克鉄路(海倫-北安)
綏佳線 綏化 - 佳木斯 381.8
鶴岡線 蓮江口 - 鶴岡 54.3
蓮江口埠頭線 [貨] 蓮江口 - 蓮江口埠頭 3.5
北黒線 北安 - 黒河 302.9
黒河埠頭線 [貨] 黒河 - 黒河埠頭 4.2
斉北線 斉斉哈爾 - 北安 231.5 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安)
泰克鉄路(泰安-克山)
海克鉄路(克山-北安)
寧霍線 寧年 - 霍龍門 284.0 斉克鉄路(寧年-拉哈)
平斉線 四平 - 斉斉哈爾 571.4 鉄路(四平-南)
昮鉄路(南-三間房)
斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾)
京白線 新京 - 白城子 332.6
白杜線 白城子 - 杜魯爾 376.5 索鉄路(白城子-家仮站)
楡樹線 楡樹屯 - 昮昮渓 6.4 斉克鉄路
宮原 - 田師付 86.0

新線[編集]

安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)

社内専用線[編集]

湯旺森林線

廃止線[編集]

社線
霊山線[貨] 首山 - 霊山操車場(1941年6月1日廃止)
西寛城子線 孟家屯 - 寛城子(1909年2月3日廃止)
国線
馬船口線 (松浦 - 馬船口、旧呼海鉄路、1936年7月1日廃止)
子山線[貨] (蛟河 - 子山、旧吉長吉敦鉄路、1936年9月1日廃止)
松浦線(新松浦 - 松浦、旧呼海鉄路、1938年6月1日廃止)
道裡線[貨] (哈爾浜 - 道裡、旧北満鉄路、1941年12月1日廃止)
新線
東当線(1944年4月1日廃止)

満鉄を走った主な列車[編集]

満鉄の車両[編集]

南満州鉄道の車両 を参照

歴代総裁[編集]

  • 代 名前 在職期間 (職名) 出身母体
  1. 後藤新平 1906年11月13日-1908年7月14日(総裁)医師・官僚
  2. 中村是公 1908年12月19日-1913年12月18日(総裁)官僚
  3. 野村龍太郎 1913年12月19日-1914年7月15日(総裁)技術者・官僚
  4. 中村雄次郎 1914年7月15日-1917年7月31日(総裁)軍人
  5. 国沢新兵衛 1917年7月31日-1919年4月12日(理事長)技術者・官僚
  6. 野村龍太郎 1919年4月12日-1921年5月31日(社長)技術者・官僚
  7. 早川千吉郎 1921年5月31日-1922年10月14日(社長)実業家
  8. 川村竹治 1922年10月24日-1924年6月22日(社長)官僚
  9. 安広伴一郎 1924年6月22日-1927年7月19日(社長)官僚
  10. 山本条太郎 1927年7月19日-1929年8月14日(社長、1929年6月21日-総裁)実業家・政治家
  11. 仙石貢 1929年8月14日-1931年6月13日(総裁)技術者・官僚
  12. 内田康哉 1931年6月13日-1932年7月6日(総裁)外交官・政治家
  13. 林博太郎 1932年7月26日-1935年8月2日(総裁)学者
  14. 松岡洋右 1935年8月2日-1939年3月24日(総裁)外交官・政治家
  15. 大村卓一 1939年3月24日-1943年7月14日(総裁)技術者・官僚
  16. 小日山直登 1943年7月14日-1945年4月11日(総裁)満鉄生え抜き
  17. 山崎元幹 1945年5月5日-1945年9月30日(総裁)満鉄生え抜き

主な出身者[編集]

満鉄社員の子息としては、桂米朝(落語家)・宝田明(映画俳優)、タモリ等がいる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 現在の麻布台2丁目1番2号、跡地には東京アメリカンクラブが造られた(2007年閉鎖)。
  2. 満鉄会編 『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』(満鉄全線全駅一覧)

参考文献[編集]

外部リンク[編集]