亀田和毅

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2008年2月28日 (木) 09:43時点におけるキラークイーン (トーク | 投稿記録)による版

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亀田 和毅(かめだ ともき、1991年7月12日 - )は、プロボクサー志望のアマチュアボクサー。大阪市西成区出身。大阪市立天下茶屋中学校卒業。ボクシング家族である亀田三兄弟の三男で、亀田興毅亀田大毅の弟である。名前のエピソードとしてトレーナーでもある父亀田史郎が出生届を出すときに「知毅(ともき)」という漢字を勘違いして「毅」で出してしまった、という話がある。髪型が特徴的。血液型B型。身長170cm、体重55kg。右ボクサーファイター。

長男の興毅と次男の大毅は「兄弟の中で、一番才能があるのは和毅」と語っている。和毅は2008年北京オリンピックを目指していたが、2008年の北京五輪は来春のアジア予選の段階で17歳以上でなければならないとの出場資格があるため、この資格を満たさない和毅の出場は不可能となった。

近況

現在亀田三兄弟は東京都葛飾区に本拠地を置いて練習を行っている。和毅は中学校在学時には、保護者である父・史郎は本人が望む限り普通教育義務教育)を受けさせなければならなかったが、在籍している大阪の天下茶屋中学校から転校した事実はなく、事実上不登校となっていた。出席日数が不足していたため、転入手続きを行うことができなかったとのことである。要出典ただし本人が自由意志で不登校を選択していたのであれば、本人・保護者ともなんら罰則は与えられない。なお、本人が学校に行きたいのに、保護者が通学をしないようにした場合(家事を強制するなど)は、就学義務違反となる。この場合はおそらく亀田和毅本人の意思による不登校であると思われるので法律上は何の問題もないが、道義的には疑問が残るとの指摘があった。要出典 しかし、修学旅行や遠足等の行事には参加していた様である。 2007年3月14日天下茶屋中学校を卒業。[1]

日本でのアマチュアデビュー断念

2007年4月からは2人の兄と同様、高校には進学せず2007年5月に行われる全日本実業団選手権でアマチュアデビューし、プロライセンスが取得できる17歳になり次第プロに転向する予定であった。しかし2007年3月7日「髪型の前髪は眉毛まで、後ろ髪はうなじまでとの規則に違反」「(テレビ番組出演などが)アマ資格に抵触する可能性がある」として、JABCルールに則り、アマチュアのリングに上がれない可能性がある旨を、日本アマチュアボクシング連盟が亀田側に通達したとの報道があった。[2]

これに対し、和毅は「勝ち続けることで特例で北京五輪に出たる」と語ったが、父親でありトレーナーの亀田史郎「違反のルールも曖昧。頭髪も社会人らしくないとムチャクチャ言いよる」「好き嫌いで亀田を排除しようとしているとしか思えん」とコメント。和毅をアメリカでボクシングデビューさせる意向を示した。

しかし後日、日本アマチュアボクシング連盟の吉森照夫専務理事が、前述の報道に反論。和毅のアマチュアデビューを拒否した事実はなく、ルールを守り品性を保ちさえすれば和毅のアマチュアデビューを歓迎するとのコメントを発表した。これについて亀田史郎は、ノーコメントを貫いている。

2007年夏、メキシコ武者修業へ旅立つ。8月10日、メキシコのパンチョロサレスジムにて、WBCミニマム級25位のホブ・ソラーノとスパーリングしたが苦戦し2ラウンドでリングを降りた。9月8日、メキシコで行われたアマチュア大会「グアンテス・デ・オロ」バンタム級リーグ戦(少年の部)の3戦目で、ギゼルモ・トレロと対戦。判定負けの裁定を受けたが再審議が行われ、無効試合となった。同4戦目では、エクトル・モラレスに判定負けをしたが、この試合もまた疑惑の判定として無効試合とされている。この大会では亀田の試合以外でも疑惑の判定が多く、大会運営側が審判団と協議し数試合の判定を無効とする採決が下された。一旦帰国した和毅に対し日本のメディアでは、「土つかずの4連勝」「無敗の遠征凱旋」「相手を圧倒」などと報じた。

2007年12月にメキシコで行われたアマチュアボクシング大会「ゴールデン・グローブ」では、決勝まで勝ち進むものの、レイ・バルガスに判定負けで優勝はならなかった。