ハンガリー動乱

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[[Image: ハンガリー革命1.jpg|350px|thumb|ハンガリー動乱(1956年)]] '''ハンガリー動乱'''(ハンガリーどうらん)とは[[1956年]]に[[ハンガリー]]で起きた[[ソビエト連邦]]の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起をさす。'''ハンガリー事件'''、'''ハンガリー暴動'''、'''ハンガリー革命'''とも。 蜂起は直ちに[[ソビエト軍]]により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。ハンガリーでは、この事件について公に議論することは、その後30年間禁止されたが、1980 年代の[[ペレストロイカ]]政策の頃から再評価が行われた。1989 年に現在のハンガリー第三共和国が樹立された際には、10月23日は祝日に制定された。現在、ハンガリーではこの事件のことを'''1956年革命'''("1956-os forradalom")と呼称している。 == 概要 == [[1956年]][[10月23日]]、ハンガリーの人々は政府に対して蜂起した。彼らは多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。ソビエト軍は1956年[[10月23日]]と停戦をはさんだ1956年[[11月1日]]の2回、このような反乱に対して介入した。1957年の1月にはソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人による改革を止めようとした。 == 蜂起に至る経緯 == 第二次世界大戦中、[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー]]は独日伊の[[枢軸国]]側の同盟国であり、1941 年の[[ユーゴスラビア侵攻]]やソ連に対する[[バルバロッサ作戦]]に参加した。1944年にソ連の軍隊が国境に迫る中、一時はハンガリーは同盟国側と停戦合意を成立させた。しかし10月の[[パンツァーファウスト作戦]]によりドイツに占領され、親独派の[[矢十字党]]がハンガリーの支配者となった。一方でハンガリー軍の一部と[[独立小農業者党]]、[[ハンガリー共産党]]などはソ連占領地域に逃れ、[[ハンガリー臨時国民政府]]を樹立した。1945年にはドイツ•ハンガリー軍は[[赤軍]]に敗北し、ハンガリーはソ連の占領下に置かれた。 大戦直後に行われた国民選挙では[[独立小農業者党]]が大勝、[[ハンガリー共和国 (第二共和国)|ハンガリー共和国]]が成立し[[ティルディ・ゾルターン]]が大統領となった。しかし1947年にソ連軍を後盾とする共産党がクーデターをおこし、[[ヨシフ・スターリン]]に忠実だった[[ラーコシ・マーチャーシュ]]が全権を握った。1949年に[[経済相互援助会議]]が結成され、ソ連はハンガリーに恒久的に軍隊を配置する権利を獲得し、ハンガリーは[[共産圏]]の[[衛星国]]となった([[ハンガリー人民共和国]])。彼の下で[[ハンガリー国家保安局]]は7000人以上の政治犯罪者を取り締まり、見せ物裁判にかけた。 戦前のハンガリーの経済は過度にドイツへ依存していたため、ドイツ敗北後の1946年には通貨の[[ペンゲー]]が暴落して[[ハイパーインフレーション]]がおこり、国が疲弊した。さらに1947年の[[パリ条約 (1947年)|パリ条約]]によってソ連、[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア]]に対して30億ドルの[[戦争賠償]]を払う義務と、赤軍の駐屯費を負わされた。これは、当時の国内総生産の2割程度に相当した。さらにその後の経済政策の失敗から生活水準は低下し、1949年の労働者の平均収入は、戦前の1938年の9割程度まで回復していたところが、3年後の1952年には7割まで急速に落ち込んだ。労働者の不満は、工場の[[自主管理]]と[[労働組合]]の結成の自由の要求という形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れていた。また、農民たちも政府の強制的な集団化から悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。 1953年に[[ヨシフ・スターリン]]が死去すると、共産圏全土で[[非スターリン化]]がおこった。[[ジャーナリスト]]や文筆家からも労働環境の改善や言論の自由が要求され、学生も大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして当局から独立した学生の組織を設立していた。国民全体から不平不満が巻き起こる中、独裁政党であった[[ハンガリー勤労者党]]内でもラーコシら[[スターリン主義]]者を批判する改革派が台頭。そこへソヴィエト共産党内部で行われた[[ニキータ・フルシチョフ]]のスターリン批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。1953年6月、ラーコシはモスクワの圧力で[[ナジ・イムレ]]に首相の座を譲らされた。ナジはラーコシ時代の経済政策を改めようとしたが、なお書記長に留まっていたラーコシ派の巻き返しによって1955年4月に失脚した。 1956年7月18日、ソ連の圧力によりラーコシが党書記長の辞任に追い込まれるのを契機に、ハンガリーの国内問題を見直そうとする動きが学生やジャーナリストの間に広がった。後任には、スターリン主義者の[[ゲレー・エルネー]]が選出されたが、これに反発した市民は、集会禁止令にもかかわらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。ソ連指導部は急遽、[[ソ連共産党政治局|党幹部会]]の[[アナスタス・ミコヤン]]と[[ミハイル・スースロフ]]の派遣を決定したが、事態を収拾する間もなく、蜂起が勃発する事態に至った。 ミコヤンとスースロフがハンガリーに出かけている間に、ソ連指導部はハンガリーに対する出兵を決定する。ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたが、フルシチョフはこれを拒否した。<ref>草思社「フルシチョフ 封印されていた証言」</ref> == 経緯 == === 10月23日から11月3日 === [[ファイル:1956 HungarianRevolution.gif|300px|right|thumb|[[1956年]][[10月23日]]の一斉蜂起]] [[1956年]]10月23日、ゲレーの退陣を求めて学生たちが[[ブダペスト]]をデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、[[ハンガリー勤労者党]]指導部は急遽、大衆に人気のあった前首相ナジ・イムレを復職させる決定をした。 翌24日、ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆とソビエト軍の戦闘状態にあった。他の地域はソビエト軍と革命派との間の停戦が行われたりソビエト軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が保たれていた。その後ブダペストのソビエト軍も結局は戦闘を停止した。 夜のうちに労働者評議会と国民評議会が組織された。また1945年や1949年の弾圧以来、初めて政治的な要求を行う政党が結成されたが、大多数の民衆は社会主義を維持しようとする政党を支持した。このような中で教会の名士たちを含む多くの政治囚たちが釈放された。また大衆は[[ワルシャワ条約機構]]からの脱退をナジ政府に迫ったが、このことは再びソビエト連邦の介入を招くこととなった。 10月25日、ナジは戒厳令を取り下げる。街の人々の中には、ソビエト軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。説得に応じたソビエト兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し約700人が集まった。しかし、突然発砲が始まった。国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。この事件については[[ハンガリー国家保安局|秘密警察]]の発砲が原因であるとの見解もある。 最も激しい戦闘はコルビン劇場のある[[コルビン広場]]で起こった。民衆は[[火炎瓶]]を用いてソビエト軍部隊に抵抗した。ミシュコルツでは労働者によるストが起きブダペストでナジ首相と直談判をおこなっている。 10月27日夜には、ミコヤンの報告によると、彼とナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された。 10月29日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成。翌10月30日にはミコヤンが、ハンガリー軍に統制を任せるべきと報告している。これを受けて、ソビエト軍撤退が開始された。しかし同日午前9時頃共産党ブダペスト地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まり、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らが[[リンチ]]された挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった。この事件を聞いたミコヤンは10月31日に反ソビエト活動の活発化を報告している。 フルシチョフは[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー大統領]]との会談で軍事介入の可能性に言及し、ナジは中立を宣言したが、国連や西側諸国からの具体的支援はなかった。 === 11月4日以降 === 11月4日に新たなソビエト軍部隊(戦車2500両・15万人の歩兵部隊)が侵攻した<ref>の侵攻作戦に参加した兵士の多くは中央アジアから連れてこられた読み書きのできない人かロシア語の話せない人であり、 彼らは[[ベルリン]]にナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた。1956年]]に起こっていた[[スエズ戦争]]の[[エジプト]]で[[イギリス]]や[[フランス]]と戦っていると信じていた兵士すら存在した</ref>。11月10日に労働者評議会や学生・知識人たちが休戦を呼びかけるまで、ハンガリーの労働者階級はソビエト軍との戦闘で重要な役割を演じた。11月10日から12月19日の間、労働者評議会はソビエトの占領軍と直接交渉し、結果として何人かの政治犯の釈放はできたが、ソビエト軍を撤退させることはできなかった。加えて、ソビエト連邦に支援された[[カーダール・ヤーノシュ]]が新しい共産主義政府を組織し、1956年以降ハンガリーを統治していくこととなった。散発的な武力抵抗やストライキは1957年の中頃まで続いた。 一方で[[ナジ・イムレ|ナジ]]は[[ユーゴスラビア大使館]]に避難したが、安全確保を保障されて大使館を出たところをソ連軍に捕まり、[[ルーマニア]]に連行されて2年後に[[死刑|処刑]]されたほか、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政府によって処刑された。1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ1200人が処刑。このとき逮捕された政治囚は1963年までにカーダール政府によってほとんどが釈放された。この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側では死者が17000人に上り、20万人が[[難民]]となって[[亡命]]した。ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。 == 革命の性質についての議論 == ハンガリー事件についての歴史的・政治的意味については、当時の体制の位置づけや民衆による蜂起の意義に関して、今もなお様々な見解がある。以下に、革命の性質についての主要な見方を列挙する。 === 社会主義に対して肯定的な見解からのもの === * ソビエト連邦や[[中華人民共和国]]を含む社会主義陣営の共産党に一般的な見解としては、かつての[[ホルティ・ミクローシュ]]政権のような軍事独裁的な政府と封建的な資本主義経済を復活させようとした聖職者やファシストによる試みだという見解が公認されている。 * [[新左翼]]の一部や[[アナーキスト]]の立場からは、ハンガリー労働者評議会を基にした新しい構造の社会を作ろうとした自由主義的な社会主義者によるアナーキズム的な革命という見方もある。 * [[トロツキスト]]は、この事件を[[レフ・トロツキー]]が唱えた「プロレタリア政治革命」であるとみなし、スターリン主義の崩壊が始まった、と認識した。 * [[社会民主主義]]的な立場や共産主義でも自主管理的な志向を持ったり、民主主義政体を維持すべきであるとする立場(=[[ユーロコミュニズム]])からは、[[ユーゴスラビア]]の[[自主管理社会主義]]や社会民主主義国家である[[スウェーデン]]のような体制に改革しようとした社会主義者による民主的な革命であったという見解がある。 === 社会主義に対して批判的な見解からのもの === * [[反共]]・[[保守]]・[[自由主義]]の立場からは、資本主義経済を目指そうとした民族主義者による民主的な革命と見ている。 * 当時の独裁体制を打破し、自由主義、民主主義の体制を確立するための革命とするものである。 このような事件の評価との兼ね合いで呼称に関する論争があるが、日本においては呼称について「動乱」「事件」「革命」のいずれかとするかは現段階において定まっていない。 == 日本における影響と評価 == ハンガリー事件は日本でも左派、右派問わず反響を呼んだ。 保守・右翼・反共の立場からは[[佐々淳行]]はハンガリーの警察が民衆を弾圧したやり方で弾圧するようなやり方を取りたくないとも発言している。 ===保守主義の誕生=== 当時の論壇は[[旧帝大]]出身の教授による、マルキシズムと日本型[[近代主義]]が主流をしめていた。 ハンガリー事件をうけ、当時警視庁の[[キャリア官僚]]の[[佐々淳行]]は『中央公論』(57年3月)で「民主的警察官はどうしたらよいのか」を発表した。これは事件により明らかとなったソ連型社会主義の決定的な欠陥を指摘し、反面として日本における現実的な行動原理を示した論文であった。 論壇に官僚が論文を発表すること自体が異例で、これまでの反動的な保守とは、全くことなる近代的な保守理論は、現役警察官の圧倒的支持をうけたといわれる。 <ref>小島亮『ハンガリー事件と日本』P62</ref> ===日本ハンガリー救援会=== ハンガリー事件における[[ソビエト連邦|ソ連]]の行動について、事件により発生したハンガリー難民の救済をを救済するため、社会党右派の[[西尾末廣]]、自由民主党の[[芦田均]]らが中心となり組織した。オーストラリアの収容所を訪問し、救援物資や義捐金を届ける活動を行った。しかし、この活動は、政治的亡命を承認しないという国策とソ連を刺激することを恐れた日本政府の政治的理由から次第に沈静化した。 当時の[[知識人]]は、おおむねこの活動を嘲笑したといわれる、[[野上弥生子]]は、事件が起こるまで「ハンガリー」がどこにあるかすら知らなかった者が、にわかに地球儀を買いに走り、またにわかに募金活動をはじめだす光景に複雑な思いがする、と発言した。<ref>小島亮『ハンガリー事件と日本』P130</ref>(小島はこれは「驕り」であるとしている) [[中野重治]]はハンガリー救援会に対する皮肉めいた文章を残している。 [[大内兵衛]]は雑誌『世界』の座談会上、ハンガリー事件でのソ連介入止む無しと発言した。[[上原専禄]]もハンガリー国民を「神経質」とする旨の発言が残っている。 これら進歩・左翼の知識人に見られるハンガリーへの冷淡さの原因は、社会主義の信奉とハンガリーに対する差別意識もあったとされる。大内はハンガリーを百姓国と表現するなど蔑視をしている。 [[山川均]]も当初はハンガリー事件に対して同情的なスタンスであったものの、のちに(農民主体の国だから)労働者はそれほどいない(だから革命などありようがない)と発言し、社会主義の進歩性にそぐわないハンガリーは遅れた国であるとした。 ===左派政党による評価=== 前年に左右統一したばかりの社会党への影響は、この事件を党の路線としてどのように反映させるかという点で、党内の認識の相違としてあらわれた。大まかに言うと、日本社会党右派は、ソ連社会主義破綻の象徴とし、左派は反革命とみなした。第13回党大会でテーゼを発表するにいたり、左派と右派で論争が巻き起こったが、最終的にはハンガリーの自由化運動についてソ連の武力干渉を許さないとした一方、反動勢力に利用された面があるという妥協的な文章に終わった。また、これより社会党は左派が主流を占めることとなる。 日本共産党はハンガリー事件について当初は様々な論争がおこったが、[[宮本顕治]]が党中央委員会の多数派を占めるにいたり、ソ連の武力介入を機に反革命とした。この路線への反対派は、1958年の第7回党大会を機に共産党を追放されることとなる。ただし、その後日本共産党は、1987年に『日本共産党の六十五年』を刊行した際に、この事件はソ連による武力干渉であり、容認できないものだったが、当時はその認識をもっていなかったと反省した。 ===新左翼の誕生=== 元青年共産同盟の[[黒田寛一]]は、ソ連共産党第20回大会でおこなわれた[[スターリン批判]]をうけ、ソビエト共産党の根底にあるスターリン主義を見抜き、東欧での民衆反乱を予言した『スターリン主義批判の基礎』を発表し<ref>小島亮『ハンガリー事件と日本』P208</ref>、 ハンガリー事件に対しソ連を擁護した[[社会党]]や[[日本共産党]]と絶縁した。黒田はこの後、「革命的マルクス主義」という独自の思想を展開し、その実践として「日本革命的共産主義同盟」を創設し、[[新左翼]]の先駆けとなった。 黒田らは、ハンガリーの[[人民民主主義]]と称されるものは人民の基盤に基いていないソ連の都合に合わせた体制であるとして、ソ連の軍事介入を非難。ハンガリー事件を革命と評した。(なお、ソ連占領後のハンガリー政府の指導者は親ナチス派の[[ダールノキ・ミクローシュ・ベーラ]]であり、ハンガリーの治安警察は親ナチス派の[[ホルティ・ミクローシュ]]の下で民衆を弾圧していたメンバーがそのまま残存していた。) == 再評価 == [[ペレストロイカ]]の影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が強まり、[[1989年]]に至り動乱の評価を修正し復権させた。ハンガリー社会主義労働者党の自らの自己批判は、後の[[東欧革命]]への導火線となった。 * [[1989年]][[2月]]の総括文書「四十年間に関する報告」の中に「[[1956年]][[10月]]の大衆蜂起」と動乱を武装大衆蜂起とする規定に定めた。[[反革命]]と言う表記を改め、「大衆の目からは、一種の民族独立運動」に転化したと指摘した。また、ソ連軍の第二次介入([[11月]])中にも[[社会主義]]の徹底的民主改革と革新への努力が力となり、それは動乱中にも存在し続けた。と記述している。結局、[[ナジ・イムレ|ナジ]]政権は、その努力にもかかわらず、情勢への[[コントロール]]を失い、逆に情勢に押し潰されたと分析した。 * [[1989年]][[3月]]のナジの遺体発掘により、再評価は決定的となった。再埋葬式の式典に際し、[[党]]表明が載せられた。 ** 式典は再埋葬を[[歴史]]的、象徴的出来事と捉えている。  ** ナジと[[裁判]]で有罪となった政治家の正当な評価。 ** ハンガリー事件の正当な評価及び、外国への事件の資料の公表許可。 ** ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済のために闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した。 ** 事件のすべての犠牲者はハンガリー国民である。この国民的損失を、ナジの再埋葬式典で、国民和解の[[シンボル]]とならなければならない。 ハンガリーはこの年をもって[[社会主義]]独裁を放棄した。それはナジの理想その物であり、[[冷戦]]の終結にも重要で計り知れない役割を演じた。ハンガリー政府は、自国の国民和解のみならず、[[西欧]][[資本主義]][[社会]]とも和解を演出した([[鉄のカーテン]]撤去。[[汎ヨーロッパ・ピクニック]]への協調)。[[1968年]]の「[[プラハの春]]」にも社会主義国家で唯一最初に正当に評価を下した。そして[[1989年]][[10月23日]]、ハンガリーは一滴の血を流す事もなく社会主義を捨てて[[ハンガリー|ハンガリー共和国]]を建国し、[[ヨーロッパ]]へ回帰するのである。この10月23日は1956年、ハンガリー動乱が発生したその日である。 == 参考文献 == * 小島亮 『ハンガリー事件と日本-1956年・思想史的考察』  : [[現代思潮新社]]、2003年 ISBN 978-4329004291/旧版[[中公新書]]、1987年 == 外部リンク == * [http://www.gendaishicho.co.jp/info/hungary1956.pdf 「ハンガリー1956」50周年シンポ・ニュースNo.1(2006年6月14日)] (PDF) ==脚注== <div class="references-small"><references/></div> == 関連項目 == * [[ポズナン暴動]] * [[ハンガリー民主化運動]] * [[マジック・マジャール]] * [[メルボルンの流血戦]] * [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]] - [[交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第11番 ト短調『1905年』]] {{冷戦}} {{ソ連の戦争}} {{DEFAULTSORT:はんかりいとうらん}} [[Category:ハンガリーの歴史]] [[Category:ブダペストの歴史]] [[Category:ソビエト社会主義共和国連邦]] [[Category:東欧]] [[Category:冷戦]] [[Category:社会主義]] [[Category:ヨーロッパの社会主義]] [[Category:東欧社会主義]] [[Category:共産主義]] [[Category:東欧革命]] [[Category:新左翼]] [[Category:1956年]]