シリル・ワイルド

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シリル・ワイルド英語Cyril Hew Dalyrimple Wild,1908年4月10日 - 1946年9月25日)は、イギリスの会社員、軍人。1929年にオックスフォード大学のブレイズノーズ・カレッジを卒業して英陸軍に入隊、1931年にライジングサン石油の社員として日本に赴任し、1940年に軍隊に復帰。日本語力を評価され英印軍第3軍English版ルイス・ヒースEnglish版司令官付参謀となった。1942年2月のシンガポールの戦いでは降伏の軍使となり、降伏交渉でマラヤ軍English版パーシバル司令官の通訳を務めた。英軍降伏後は日本軍の捕虜となり、通訳として捕虜収容所や泰緬鉄道の建設現場で日本軍との交渉にあたった。1945年8月の日本降伏後はマラヤ・シンガポールの戦犯調査に携わり、BC級戦犯を訴追。1946年9月東京裁判に証人として出廷し日本軍の非人道的行為について証言した。同月、シンガポールへの帰路、香港飛行機事故により死去。享年38。

経歴[編集]

生立ち[編集]

1908年4月10日 イギリス・ロンドン教区牧師English版の家に5人兄妹の3男として生まれる[1][2]

1927年にオックスフォード大学のブレイズノーズ・カレッジに進学し、文学を専攻[3][2]

1929年に、おじの紹介でロイヤル・ダッチ・シェルの子会社・ライジングサン石油へ就職することを決める[4]。同年7月、オクスフォードシャ・バッキンガムシャ歩兵連隊English版の第4大隊に入隊し訓練を受ける[5]

ライジングサン社勤務[編集]

1930年、ライジングサン石油に入社。子会社に移るまでの1年をロンドン市内のシェル石油の事務所で過ごす[6]。同年、家族ぐるみで親しくしていたセリア・ウォーターハウスと婚約[7]

1931年夏、ライジングサン社の駐在員として日本へ赴任。当初名古屋市に住み、その後同社の本拠地があった横浜市に移る[8][2]

1935年8月、イギリスに一時帰国し、同年11月に婚約者セリアと結婚[9][2]。1936年1月に夫人とともに横浜に戻る[9][2]

1936年7月、横浜市から東京麹町英大使館近くに転居[10][2]、日本語研修を受ける[11]。東京滞在中にオックスフォード大学同窓会の日本支部に入会し、英国の外交官・軍関係者に知己を得る[12][2]

東京での研修終了後、大阪事務所に配転となり、京都から通勤[13]

後に神戸市に移る[14]

英陸軍復帰[編集]

1940年6月、要望していた英陸軍への復帰が決まり、帰英[15][16]。当初北アイルランド駐屯の大隊に勤務[17][16]

1940年11月、日本語を話せたことから、情報将校兼通訳として在シンガポール英印軍第3軍English版司令官・ルイス・ヒースEnglish版中将付参謀に大尉として転属される[18][16]

1942年2月15日、前年12月8日の日英開戦から2ヶ月余りで英軍の敗北は決定的になった[16]。マラヤ軍司令部の通訳が既にシンガポールから避難していたため、マラヤ軍English版司令官パーシバル中将の要請で、英軍降伏の条件を日本軍側に伝える軍使を務め、同日夕刻、降伏文書の調印式に出席してパーシバル中将の通訳を務めた[19][20]

  • このとき、交渉に向かうため白旗を担いでブキテマの丘を歩く様子が写真撮影されて新聞に掲載された[21]

日本軍占領下・捕虜時代[編集]

捕虜収容所[編集]

1945年2月の英軍降伏後、当初1週間ほどフォート・カニングEnglish版に抑留された後、チャンギーの捕虜収容所に移され、その間パーシバル中将・ヒース中将ら英軍の司令官・参謀将校との連絡将校、通訳を務めた[22][20]

ワイルドはこの頃から、日本軍の捕虜の取扱いに戦争犯罪に該当する行為がないかを確認し、また連合軍捕虜から情報を収集していた[23]

  • その端緒は日本軍への情報提供を拒んだパーシバル中将やヒース中将を数日間独房に入れ、食事や水を断つという虐待だった[24]

1942年3月13日、チャンギーからリバー・バレーEnglish版の収容所へ移り、同年12月までの約8ヶ月間、リバーヴァレー通りとハヴェロック通り(Havelock Road)の合同収容所の副旅団長兼通訳、連絡将校として作業所の将兵に付き添った[25]

  • 両収容所は市の端の湿地帯にシンガポール川を挟んで向かい合って建っており、リバーヴァレー通りの収容所には約4,500人、ハヴェロック通りの収容所には約3,500人の捕虜が収容された。この間、同収容所の捕虜は主に港で船の積荷の揚げ降ろしに従事していた。[25]
  • 同収容所では、同年7月29日に捕虜全員が新造の駐車場の壊れた煉瓦とガラスが混ざった地面の上を走るよう命じられるという事件があった[26]
  • また同年9月に捕虜収容所の管轄が第25軍から陸軍省俘虜情報局に移された際には、馬来俘虜収容所の所長となった福栄真平少将の命令で収容所の捕虜全員が「脱走を企てたりしない」とする誓約書に署名させられるという事件があり、この前の週にチャンギーでは司令官のE.B.ホウムズ大佐が誓約書への署名を拒んだことにより、脱走を企てた捕虜が見せしめのために処刑されていたため(セララン兵営事件)、リバーヴァレー通りとハヴェロック通りの合同収容所では同じ災難を避けるために誓約書に署名した[27]

1942年12月、収容所の捕虜5,000人とともにチャンギーの捕虜収容所に戻った。チャンギーでは連合軍捕虜と日本軍の意思疎通の改善をはかり、結果、1943年4月に至るまで平穏に過ごした[28]

  • 元英マライ軍司令部の指導者たちは、日本軍と手紙でしか接触しようとせず、要望に対して回答も得られない状況だったため、ワイルドは直接交渉するよう関係を再建した[28]

そこで、ワイルドは、タイから病気に罹り後送されてきた捕虜から泰緬鉄道建設の過酷さについて聞き、F隊[29]とともにタイに行くことを決めた[30]

泰緬鉄道建設[編集]

1943年4月、F隊の本部があったタイのニーケ(Neekey)に配属され、捕虜との連絡将校・通訳を務めた[31]。その後、捕虜の待遇改善を訴えて頻繁にニーケの馬来俘虜収容所第4分所長・坂野博暉中佐に抗議していたため、疎まれてS.W.ハリス中佐、ディラン中佐らとともにソンクライの第2収容所へ異動になった[32]

  • 遠藤 (1996 133)によると、ワイルドは、泰緬鉄道の工事現場で建設作業をしていた第5鉄道連隊の事務所に毎日のようにやってきて、技術将校・阿部宏中尉に『病人を働かせるのは国際法に違反しています。戦争が終わったら大変なことになりますよ』と繰り返していた。口癖のように『砂糖下さい、鉛筆下さい、紙下さい』とねだっていた。砂糖はマラリアなどで死にかけている捕虜の口に含ませていた。
  • ワイルドは、死亡した捕虜の氏名、所属部隊、死亡原因のほか、その捕虜を死に至らしめた日本の将兵の氏名をメモして、そのメモを埋葬の際にコールタールで封印した缶に収めて遺体の胸元に抱かせていた。また埋葬した場所には後で掘り起こせるように目印を付していた。戦後、戦犯調査の際に、日本兵を現場に連行して捕虜の遺体とメモを掘り起こし、戦争犯罪人を裁く際の証拠として使ったという。[33]

1943年12月、同年10月に泰緬鉄道が完成したため、F隊の生存者とともにチャンギーに帰還。以後終戦までをチャンギーで過ごした。[34]

  • 1943年12月末までに、F隊の7,000人のうち、3,000人以上が死亡し、1,000人は病気や移動に耐えられないことを理由にビルマ・タイに残され、3,000人がシンガポールに戻った[35]

戦後・戦犯調査[編集]

1945年8月15日の玉音放送の後、ワイルドは136部隊English版のカナダ陸軍ボブ・スチュアート中佐[36]らと合流。同年9月6日にチャンギーからグッドウッド・パーク・ホテルに置かれた東南アジア最高司令部情報支隊の前線本部に移り、戦争犯罪調査局Eグループに勤務して、復員前の連合軍捕虜・民間人抑留者および日本軍捕虜・関係者から戦争犯罪に関する証言・伝聞を聴取、自ら容疑者の逮捕・尋問にあたって重大事件約50件について証拠をまとめた[37]

同年10月には、アメリカ軍マニラ裁判の公判前の山下奉文・元第25軍司令官に対して聴取調査を行った[38]

同年12月、英国に帰国、オックスフォードボアズ・ヒルEnglish版にあるセリア夫人の実家で過ごした[39]。帰英後間もなくロンドンの戦争犯罪対策本部からマラヤでの任務継続の要請を受けた[40]

1946年2月、セリア夫人を帯同してシンガポールに帰任[41]。大佐に昇級し、マラヤ・シンガポールにおける戦争犯罪連絡将校としてシンガポール・ペナン・クアラルンプールの3つの戦争犯罪調査チームを指揮した[42]泰緬鉄道建設F隊事件については、自ら証拠をまとめた[40]

ワイルドは、170人余の戦犯容疑者を逮捕してシンガポール法廷に送致し、このうち5件の審理では自ら証人となって法廷で証言した[43]

東京裁判、事故死[編集]

1946年8月下旬から9月上旬、東京裁判での証言に先立ち、東京で戦犯調査を行い、米国の調査で見落とされていた26件の戦犯事件に関する日本軍の報告書を発見した[44]。報告書はいずれも、戦犯裁判での被告側の弁論と、予想される追及への反論の指針を示す内容だった[45]。8月最終週には、報告書をもとにシンガポール華僑粛清事件の容疑者として元第25軍参謀・杉田一次中佐を逮捕し、シンガポールへ送致した[45]

1946年9月、太平洋戦争の証人第1号として東京裁判に出席し、同月11日から19日まで9日間にわたり調査にあたった日本軍の戦争犯罪の内容について証言[46]

1946年9月25日、東京からシンガポールへ戻る途中、香港啓徳空港で、搭乗した9:30発の空軍機・ダコタが離陸直後に墜落し、死亡[47]。享年38[48]。墓は香港のハッピー・ヴァレー墓地English版にある[49]

ワイルドの死後、セリア夫人は帰英してウィンチェスターで暮らし、1959年に没した[49]

泰緬鉄道建設F隊とワイルド[編集]

泰緬鉄道建設のための連合軍捕虜の派遣は、1942年5月14日濠軍A.L.ヴァーリ准将が率いるA隊3,000人のモウルメイン派遣に始まり、1942年10月から1943年3月までに、35,000人以上がチャンギーや他の収容所から建設現場に派遣されていた[50]。1943年春には連合国がインド洋制海権を掌握しつつあり、海上補給路の維持が困難になってきたため、泰緬鉄道の建設が急がれることになった[50]

1943年初、馬来俘虜収容所所長の有村恒道中将[51]は、タイに派遣する捕虜7,000人を選ぶよう、チャンギーの捕虜の統率者に要請した[50]。既に健康な者は派遣済みで、栄養不良により捕虜は皆弱っていたため、適当な者はいないと回答すると、有村中将は、移動先はシンガポールよりも食糧事情が良く、療養のためにも良いから移動するので、健康不良者に作業や行軍はさせない、日用品や機器類を携行してよい、食堂や病院、医療品も用意する等の条件を提示したため、約2,000人の健康不良者も含む捕虜7,000人のF隊が編成され、列車でシンガポールを出発した[52]

F隊に同行したワイルドは、実際にはタイのバンポンEnglish版から先には移動手段もなく、携行品を放棄して300キロを徒歩で移動しなければならなかったこと、満足な食事も落伍者を受け入れる医療施設もなく、日本軍の下士官が捕虜に行軍させるために捕虜の健康状態を考慮せず、また抗議も無視して暴力を振るっていたことなどを記録していた[53]。目的地となっていたタイとビルマの国境に近いジャングルに到着すると、捕虜収容所の建物は未完成で屋根がない状態だった[54]。捕虜は健康状態に関わりなく材木の運搬、杭打ちなどの建設作業に従事させられ、過酷な作業のほかにケガやマラリヤ赤痢などの感染症、日本軍の暴力に脅かされ続ける毎日だった[55]

1943年7月、ソンクライの第2収容所からM.T.L.ウィルキンソン中佐ら10余人が脱走する事件があり、8月下旬にビルマの村に辿り着いた4人が逮捕され[56]、各地の収容所を引き回された上でF隊司令部のあるニーケへ連れ戻され、処刑されることになった[57]。このとき処刑の立会いのためニーケに出向くよう指示されたワイルドは、状況を察して坂野中佐に面会し、脱走者を処刑しないよう抗議した[58]

(…)彼(坂野)は、これらの将校は逃亡して部下を困難に陥れた、といった。わたし(ワイルド)は、それは逆だと答えた。日本軍こそ、将校が部下の面倒を見られないようにした。何百人もが死んでいくのを見るに忍びず、自らの命を賭けてインドまで脱走し、イギリス陸軍や外の世界に、日本軍がタイの鉄道において捕虜をどう扱っているのかを知らせようとしたのだ、といった。さらに坂野中佐にたいして、シンガポールを出るとき、帝国陸軍を信用せよ、何の心配もいらないといったではないか。しかし3ヶ月のちには、帝国陸軍を信頼した者のうち1,700人が死に、さらに何百人もが死にかけているではないか、と抗議した。ここで坂野中佐は、なんと涙を流しはじめた。(…)

シリル・ワイルド 1944年6月26日、日本軍第7方面軍本部のラッフルズ・カレッジ軍事法廷終了後の報告書の中で[59]

坂野中佐は処刑を中止し、逮捕された4人は翌1944年6月の軍事法廷で「(逃走中に死亡した)ウィルキンソン中佐にそそのかされた」として有期刑となり、オートラム刑務所に数ヶ月収監された後、健康上の問題を理由に出所を許された[60]

山下将軍の尋問[編集]

1945年10月23日、ワイルドはアメリカ軍の戦犯裁判を待っていた山下奉文・元第25軍司令官に聴取調査を行うため、マニラへ飛び、同月28日に山下への尋問を行った[61]

ワイルドがマレー作戦の作戦中・作戦後に日本軍が犯した残虐行為について詳細を説明すると、山下は証拠には触れずに「一切知らない」として否認、強い調子で犯罪をなじり、残虐行為に責任のある師団とその責任者の名前を挙げた[62]

山下は、ムアルでのオーストラリア人・インド人の捕虜殺害事件2件とオーストラリア軍のケイラー曹長射殺事件に関して近衛師団・西村琢磨中将、アレクサンドラ病院事件および1942年2月19日のオーストラリア人捕虜14人の殺害事件に関して第18師団牟田口廉也中将を尋問すべきだとし、シンガポール華僑粛清事件に関して「責任者とその上官の名前」は覚えていないが、憲兵隊が裁量でやったことだ、と供述した[62]

ワイルドは、山下が揮下の部隊の残虐行為について敢えて尋ねなかったのは頷ける話だとし、日本軍の降伏後、上級将校は下級将校を簡単に売り、下級将校は上級将校ほかに罪を着せようとすることがわかったため、山下が名前を挙げたことを伝えて、戦犯裁判にかけると脅かして師団長を尋問すれば、より直接的な責任を持つ部隊と責任者の名前を明らかにできるだろう、検察側は司令官が知らないといっても指揮下の部隊が犯した残虐行為にたいする責任が免除されるものではないと主張するだろう、と報告している[63]

シンガポール華僑粛清事件[編集]

1946年8月下旬から9月上旬にかけて東京で行った調査で、ワイルドは、それ以前の米国の調査で見落とされていた26件の日本軍の報告書を見付けた。その中に、俘虜関係調査中央委員会第4班がまとめた「シンガポールにおける華僑処罰に関する調書」と題した「秘密」扱いの文書があった。その内容はシンガポール華僑粛清事件への軍の関与をいかにして誤魔化すかを検討したものだった[44]

報告書をまとめたのは元第25軍参謀・杉田一次中佐だった[45]。ワイルドは個人的にも杉田が中国系住民の殺害に関与していたことを知っていたため(後述)、1945年8月の最終週に巣鴨プリズンへ行き、華僑殺害への関与の容疑で杉田を正式に逮捕し、軍用機でシンガポールへ送致した[45]

1946年9月10-11日、東京裁判で、ワイルドは、シンガポール陥落後の1942年2月22日にニュービギン准将の通訳として日本側代表の杉田一次参謀と交渉した際に、英軍側が100名以上の中国系住民がチャンギーの収容所の外の海岸で機銃掃射によって殺されたことと英軍捕虜が死体の埋葬作業を命令されたことについて抗議し、今後中国系住民の殺害や部下の死体埋葬への使役を行わないことを申し入れた際に、杉田参謀が「是等の華僑は悪い人間である、であるからして彼等を射殺したのである」「我々は何時でも悪い奴が見つかったならば、こちらの欲する時に射殺するのである」と答えた、と証言した[64][45]

しかし1946年9月にワイルドが死去すると、華僑粛清事件の裁判が始まる前に、杉田は釈放され、検察側の証人となった[65]

事故死が戦犯裁判に与えた影響[編集]

戦犯事件の中で特にワイルドが注力していた泰緬鉄道建設F隊事件の裁判はワイルドの死の翌日である9月26日に開廷し、同年10月23日に結審した[66]

ワイルドの死後、シンガポール華僑粛清事件の裁判が始まる前に、チャンギー刑務所に抑留されていた杉田は訴追されることなく釈放され、検察側の証人として出廷した[67]

ウォード (2005 72)は、英国の戦争犯罪追及にアイデアと方向性、豊富な知識を与えていたワイルドの突然の死は、進行中の調査に計り知れない影響を与えた。英国にとってワイルドは、余人をもって代えることはできなかった。彼の死後、戦犯捜査の力は急速に落ちた。またいい加減な捜査に基づく事件が裁判に持ち込まれ、起訴の基準も低下した。これが今度は、何件かの重大な誤審を生むことになった、と評している。

遠藤 (1996 206)は、ワイルドの死後、シンガポールのBC級戦犯裁判では、目立って死刑判決が減った、としている。

調査に関わった主な戦犯事件[編集]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. ブラッドリー 2001 15
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 遠藤 1996 125-126
  3. ブラッドリー 2001 19-21
  4. ブラッドリー 2001 21
  5. ブラッドリー 2001 22
  6. ブラッドリー 2001 22-23
  7. ブラッドリー 2001 23
  8. ブラッドリー 2001 26-28
  9. 9.0 9.1 ブラッドリー 2001 28-31
  10. ブラッドリー 2001 31,34
  11. ブラッドリー 2001 39
  12. ブラッドリー 2001 31-39
  13. ブラッドリー 2001 39。この頃手紙の中で、連合国と日本の関係悪化によってライジングサン社の石油取引が落ち込み、また京都で反英機運と外国人居住者への排斥意識が高まっていたことに触れている(ブラッドリー 2001 40-41)。
  14. ブラッドリー 2001 42。この他に、時期不定だが仙台市博多、福岡にも滞在歴がある(ブラッドリー 2001 308)。
  15. ブラッドリー 2001 42-45
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 遠藤 1996 127
  17. ブラッドリー 2001 46
  18. ブラッドリー 2001 46-47
  19. ブラッドリー 2001 63-74
  20. 20.0 20.1 遠藤 1996 124
  21. ブラッドリー 2001 75
  22. ブラッドリー 2001 82
  23. ブラッドリー 2001 82-83
  24. ブラッドリー 2001 83-84
  25. 25.0 25.1 ブラッドリー 2001 84-85
  26. ブラッドリー 2001 85-86
  27. ブラッドリー 2001 85
  28. 28.0 28.1 ブラッドリー 2001 89
  29. 連合軍の捕虜は、泰緬鉄道の建設現場に派遣される捕虜の部隊を派遣順にA,B,C,…,L隊と名付けていた(ブラッドリー 2001 89)。
  30. ブラッドリー 2001 89-90
  31. ブラッドリー 2001 100
  32. ブラッドリー 2001 100-101,121
  33. 遠藤 1996 135
  34. ブラッドリー 2001 117-118
  35. ブラッドリー 2001 116
  36. ブラッドリー 2001 157
  37. ブラッドリー 2001 122-133,171
  38. ブラッドリー 2001 171
  39. ブラッドリー 2001 196
  40. 40.0 40.1 ブラッドリー 2001 197
  41. ブラッドリー 2001 196-197
  42. ブラッドリー 2001 196-198
  43. ブラッドリー 2001 212
  44. 44.0 44.1 ウォード 2005 81
  45. 45.0 45.1 45.2 45.3 45.4 ウォード 2005 82
  46. ブラッドリー 2001 214-259
  47. ブラッドリー 2001 260-261。乗員5人、乗客14人全員が死亡した(同)。
  48. ブラッドリー 2001 261
  49. 49.0 49.1 ブラッドリー 2001 273
  50. 50.0 50.1 50.2 ブラッドリー 2001 93
  51. 福栄少将の後任(ブラッドリー 2001 93)。
  52. ブラッドリー 2001 93-95
  53. ブラッドリー 2001 95-97。ワイルド自身も重病者の行軍を止めさせようとした際に日本兵に殴られた(ブラッドリー 2001 97-98)。
  54. ブラッドリー 2001 98。捕虜たちはその建物で5ヶ月間寝泊りした(同)。
  55. ブラッドリー 2001 99-100
  56. ウィルキンソン中佐らは5人は逃走中に死亡、ほか3名は不詳(ブラッドリー 2001 108-110)。
  57. ブラッドリー 2001 105-110。著者のブラッドリーもこのとき脱走し、ニーケへ連れ戻された(同)。
  58. ブラッドリー 2001 110-111
  59. ブラッドリー 2001 111
  60. ブラッドリー 2001 111-113
  61. ブラッドリー 2001 171-174。山下の裁判は同月8日に開廷しており、28日まで小休止の後、29日から再開された(ブラッドリー 2001 189)。
  62. 62.0 62.1 ブラッドリー 2001 174-178
  63. ブラッドリー 2001 179-180
  64. 林 2007 122 - 1946年9月10-11日付極東国際軍事裁判速記録からの引用として。
  65. ウォード 2005 82-83。同書は、杉田の釈放はワイルドの死が英国の戦争犯罪調査にもたらした混乱の結果だとし、杉田が粛清を担当した部門の責任者でありながら訴追されず、検察側の証人となったのは全く不可解だ、としている。
  66. ブラッドリー 2001 269-271
  67. ウォード 2005 82-83
  68. ブラッドリー 2001 145-170

参考文献[編集]

  • 林 (2007) 林博史『シンガポール華僑粛清』高文研、ISBN 978-4874983867
  • ウォード (2005) イアン・ウォード(著)鈴木正徳(訳)『将軍はなぜ殺されたか-豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇』原書房、ISBN 4562038799
  • ブラッドリー (2001) ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店ISBN 9784750314501
  • 遠藤 (1996) 遠藤雅子『シンガポールのユニオンジャック』集英社ISBN 4087811379
  • 神酒沢(1967) K.K(神酒沢孝四郎)「シンガポール、オートラム刑務所における虐待」、現代史料室・坂邦康編『戦争裁判(英領地区)』東潮社、DOI 10.11501/3005871 (閉)、pp.27-54,146-147

外部リンク[編集]