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'''オールスターゲーム'''とは[[日本]][[日本プロ野球|プロ野球]]の対抗試合である。毎年7月に行われ、監督推薦やプロ野球ファンによる投票で選抜された選手が出場する。'''球宴'''(きゅうえん)とも呼ばれる。
  
 
== 歴史 ==
 
== 歴史 ==

2020年1月11日 (土) 00:02時点における最新版

オールスターゲームとは日本プロ野球の対抗試合である。毎年7月に行われ、監督推薦やプロ野球ファンによる投票で選抜された選手が出場する。球宴(きゅうえん)とも呼ばれる。

歴史[編集]

前身としてアメリカメジャーリーグベースボールを手本に1リーグ時代の1937年から「職業野球東西対抗戦」という大会名で本拠地別に配分した東西オールスターとして行われたのが始まりとされている。1リーグ時代はシーズン終了後に行われていた。

2リーグ制になった1950年は実施されず、1951年からセントラル・リーグパシフィック・リーグの対抗方式で実施されている。シーズン終了後は日本シリーズが行われることから、時期を夏場に移しての開催となっている。スタート当初は年度により2試合と3試合とでばらつきがあったが、1960年代以降は3試合で定着してきた。しかし、アメリカのオールスターが年1試合なのに対し、日本の3試合は多いのではないかという選手会からの要望もあり、1989年以降は原則2試合となった。但し基本的に夏季オリンピック開催年については3試合を維持し、1992年以降は第3戦を地方開催することとなった。

2001年シーズン(第1戦福岡ドーム、第2戦横浜スタジアム、第3戦札幌ドーム)を最後に3試合制は原則として消滅、2002年以降は完全2試合制となり、隔年で2試合のうち1試合(原則第2戦)を地方開催する形となった。

なお、開催に際しては12球団持ち回りで開催権が与えられ、その球団のホームスタジアムで開催となるがナイター開催が可能な照明設備を有する収容人員3万人以上の野球場での開催が義務付けられているため、以前近鉄バファローズ藤井寺球場日生球場を本拠にしていた頃、藤井寺は照明設備がなく(1984年に照明設備設置)日生は収容人員が2万人強と規定を満たしていなかったため、近鉄が主管球団となったシーズンには南海ホークスの本拠地・大阪球場で振り替えて開催した。これは近鉄に限ったことではなく2002年のオールスター第2戦は広島東洋カープが開催権を持っていたが、ゲームが開催されたのは広島市民球場ではなく松山坊っちゃんスタジアムで、2003年のオールスターは阪神タイガースが開催権を持っていたが甲子園球場ではなく大阪ドームでそれぞれ開催された。その他、ロッテオリオンズ1973年から1977年に宮城球場をフランチャイズとしていた時代はロッテの主管試合は開催されなかった。理由は宮城球場のキャパシティが上述の3万人以上収容の規定に満たなかったことや周辺施設の問題による。

1988年より三洋電機が特別協賛して冠大会となり大会の名称も「サンヨーオールスターゲーム」としていたが2006年12月1日、三洋本体の業績悪化が理由で2006年限りでの撤退が決定。19年間に渡って開催したサンヨーオールスターゲームの歴史に幕が下ろされた。2007年からの新・冠スポンサーが同年4月4日に中古車販売大手のガリバーインターナショナルに決定し、大会名も「ガリバーオールスターゲーム」となった。

近年では「オールスターでは変化球を投げづらい」や「真剣勝負=直球勝負」とする風潮があり、真の真剣勝負が見られないという意見が増えている。

過去の地方開催[編集]

開催概要[編集]

選出方法[編集]

公式投票はがき、市販の官製・私製はがき、インターネット(パソコン、携帯電話)から投票する。インターネット投票では、同一サーバーから1日5回までという投票制限がある。

※公式投票はがきは公式戦の開催会場やコンビニエンスストアサンヨー商品取り扱い店などで配布され、公式戦会場など一部では直接投票できる(切手不要)投票箱が設置されている。2004年まではコンビニエンスストアにも投票箱を設置していたが、2005年は設置を取りやめた。一説には個人情報保護法による影響と言われており、2006年以降は個人情報を記載しなくてもよい公式投票はがきが導入されたことからコンビニエンスストアに投票箱が復活した。

途中経過は投票開始日から数えて概ね1週間経過してから締切日までほぼ毎日(土・日曜日は除く)発表される。締め切り後1週間程度をメドに最終集計を公表。ファン投票により、外野手のみ上位3名まで、そのほかのポジションについては1位の選手が選出される。翌日発表の監督推薦(前年リーグ優勝球団監督が担当)を併せて両チーム28名ずつ(計56名)がメンバーとして登録される。

1986年までは18名(1975年の指名打者制度投入後は19名)連記、あるいは1名のみの単記・または18名連記のどちらか等投票方式の変化をたどってきたが、1987年以後は単記・連記自由で、連記の場合は19名(セ・9人、パ・10人)までであれば自由となった(下記参照)。

投手についてはその後ルール改正で「先発」「中継ぎ」「抑え」の3人ずつまで投票できるため、連記の場合は23人(セ・11人、パ・12人)までなら良い。但し、各リーグ・各ポジションにつき1名(外野3名まで)は厳守することとなっている。

公式投票はがきからの投票の場合、マークシート方式であらかじめノミネートされた選手の中から選んで塗りつぶす方式が取り入れられている。

2005年よりファン投票において得票数トップとなった選手には「最多得票プレーヤー」として表彰される。表彰は出場選手発表後、所属チームのホームゲーム開催球場にて実施され、認定証、盾などが贈呈される。

基本的にファン投票で選出された選手は出場を辞退することが出来ない。辞退した場合は野球協約86条により球宴終了後の後半戦開始から10試合、選手登録が出来なくなる。例外として「顕著な傷病等により出場できなかったものとコミッショナーが認めたときは、出場登録できるまでの期間を短縮することができる」とあり、故障による出場辞退の場合は出場停止期間の短縮もしくは免除を受けることができたが、明確な適用基準がなく悪用の恐れがあるとのことから2006年をもって廃止された。この制度の適用を受けたことがある選手は2003年川崎憲次郎、2006年の福留孝介小久保裕紀の3人である。福留は後半戦開幕から活躍したため制度の悪用との批判があった(この年所属球団の中日がリーグ優勝している。福留は出場選手登録抹消を含めてオールスター戦前のまでの15試合中14試合を欠場していることから、感情的批判の域を出ないという見方も強い)。そのため、少々の軽傷ならば強行出場もしくは1打席のみの代打出場をする選手が出てきているのも現状である。

歴代のファン投票の方式[編集]

  • 1951、52年 18名連記 市販のはがき使用による郵送のみ
  • 1953年 単記(1名のみ) はがき郵送のみ
  • 1954、55年 単記・18名連記のどちらでも可(市販のはがきの郵送の他、新聞刷り込み投票用紙、はがき大の画用紙でも投票と持ち込みも可能)
  • 1956年 はがきの場合は単記・18名連記どちらも可。新聞刷り込み投票用紙は18名連記のみ 何れも郵送のみ受付で小包は使用不可
  • 1957 - 70年 はがき、新聞刷り込み投票用紙とも18名連記のみ 何れも郵送のみで小包使用不可
  • 1971、72年 両リーグとも同じ守備位置・選手を1つ(1名)ずつ選ぶ準単記方式(即ち投手を投票したいのであればセ・パそれぞれの投手の中から1名ずつ選ぶ) はがき・専用投票用紙による郵送のみ
  • 1973 - 75年 両リーグとも投票者が各自守備位置を選び2名ずつ投票する準単記方式 はがき・専用投票用紙による郵送のみ
  • 1976 - 86年 19名連記(守備位置と背番号の数字と球団の英略を併記) はがき・専用投票用紙による郵送のみ
  • 1987年 - 現在 単記・連記どちらも可。連記の場合は19名(その後投手を3つに分類したため現在は23人)までの範囲であれば自由に投票できるようになった はがき・専用投票用紙による郵送、球場などでの直接持ち込み、その後インターネットパソコン携帯電話)からの投票も可能となる

現在のファン投票の問題点[編集]

  • インターネット投票の導入により、安易に大量投票が可能になったため、故障で試合出場のなかった選手が選ばれたり、そのポジションを経験したことのない選手が票を集めるといった不可解な結果が多くみられるようになっている(2003年度の川崎祭)。好意的解釈をするか否定的に受け止めるかは人それぞれだが、阪神に所属していたトレイ・ムーアに一塁手での投票が入っていたり、当時千葉ロッテに所属していたリック・ショート(現東北楽天)にほとんど守ったことのない遊撃手(ショート)での票が多く入っていたこともある。
  • ノミネートされた選手への投票に比べて、その他の選手への投票は手間がかかるため、ノミネート外選手が選出されることは少ない。そのため、シーズン途中からレギュラーになった選手、ノミネートされていない選手は選ばれにくい。また、シーズン中にポジションの変更が行われた選手も変更前のポジションでの得票が圧倒的に多い。
  • 先発と中継ぎを兼任している投手、代打・代走・守備要員のようなスーパーサブが選出されることはまずない。
  • 先発・中継ぎ投手は1球団あたり5~6人ずついるが、枠はそれぞれ1つずつしかないため監督推薦でなければ出場は難しい。
  • もともとは「ファン投票で人気のある選手を、監督推薦で実力のある選手を選ぶ」という趣旨があったらしいが、そこまで拘られてはいない。が、ファン投票で特定球団ばかりから選出されたのを監督推薦で調整しているように、監督推薦がファン投票の下位的存在になっていることを問題視する向きもある。
  • 応援する球団の選手や有名選手にのみ投票するファンが多いため、人気球団の選手やマスコミへの露出が多い選手ばかりが選出されがちである。1990年代では巨人、2000年代では阪神にその傾向が強い。チームスポーツの性質上、ある程度は仕方ないという意見もある。
  • 票が入りやすいという条件さえあれば、故障選手・2軍調整中選手まで選出されてしまう危険性がある(2007年の松本輝など)。
  • また、稀に球団自らがチームへの関心を喚起する事を目的としてファンに対して投票を呼びかけた場合、結果的に当該球団所属選手への大量の得票に繋がってしまうケースがあり、特にその球団のシーズン成績が不振である場合には非難の対象となりやすい(1978年日本ハム1995年横浜など。特に前者の場合は一部選出選手が出場辞退に追い込まれている)。
  • これらの問題の改善策として、ノミネート制度の廃止やポジション別での選出の見直しなどが議論されている。

守備位置の数字[編集]

  • 先発投手 1-1
  • 中継ぎ投手 1-2
  • 抑え投手 1-3
  • 捕手 2
  • 1塁手 3
  • 2塁手 4
  • 3塁手 5
  • 遊撃手 6
  • 外野手 7,8,9
  • 指名打者 DH

投票で使う球団略号[編集]

セ・リーグ[編集]

パ・リーグ[編集]

過去に使われた略号[編集]

出場対象選手[編集]

  • 原則として5月末までに支配下登録されている選手を対象とする。
  • 2004年から1軍の試合実績のない選手への投票を抑制すること、また組織票防止の観点から、打者は10試合以上、若しくは20打席以上出場、投手は5試合以上、若しくは10回以上の登板(出場)実績のない選手は選考の対象から外される事となった(川崎祭を参照)。
  • 外国人選手はファン投票に関しては推薦の上限を設けない(試合出場に際しては同時出場の場合上限あり)。
  • また、投票期間中の選手移籍に関しては、同一リーグ内の場合は前所属球団の分と併せて得票数に計算。異なるリーグへの移籍となる場合は、前所属球団の分はそのまま「移籍前」扱いとして残して、移籍先球団の所属するリーグでは改めて0の段階から得票をカウントしていく。

試合方式[編集]

  • 2試合とも指名打者制。
  • 9イニングで終了、延長戦は無し。引き分け再試合も無し。
  • 投手は3イニングを超えて登板することはできない(ただしイニング途中から登板した場合はそのイニングを含まない。よってノーアウトで交代した場合記録上最大4イニング登板可能である)。
  • 試合の審判は、セパ両リーグから3人ずつ選ばれた審判員による。
  • 明確に規定されているわけではないが、開催球場を本拠地とする投手が先発を務めることが慣例になっている(山本昌が自身の公式ページで言及していた)。例としては2003年第1戦(大阪ドーム)の先発投手は、全セが阪神(当時)の井川慶、全パが近鉄(当時)の岩隈久志だった(この年の主管球団は大阪ドームを本拠地にする近鉄ではなく、阪神である)。
地方球場での試合では、その球場の主管球団の投手が先発を務めることが多い。こちらの例は、2006年第2戦(サンマリンスタジアム宮崎)の先発が、全セは、キャンプ地巨人内海哲也で、全パは、地元九州(キャンプ地でもある)ソフトバンク斉藤和巳だった。

過去の試合方式[編集]

各種表彰[編集]

  • 最優秀選手賞(各試合につき1名ずつ) 賞金200万円
  • 優秀選手賞(各試合につき4名ずつ) 賞金100万円
  • SANYO賞→ガリバー賞(各試合で最もファンの共鳴を与えたファインプレーをした選手。SANYO賞のときは随時表彰(賞金10万円)だったが、ガリバー賞は2試合を通して1名にガリバー提供の中古車が贈られる。2007年度の審査員長は萩本欽一茨城ゴールデンゴールズ監督が勤める)
  • ホームラン賞(各試合でホームランを打った選手に随時) 賞金3万円(テレビの中継では、金額の詳細は略され「賞金が贈られます。」と紹介される)
  • サンヨーオールスター新人賞→ガリバーオールスター新人賞(全試合を通してこの年オールスターに初出場を果たし、活躍した選手を各リーグから1名ずつ) 賞金30万円
  • 三洋電機が協賛した時には各賞受賞者に副賞として三洋家電製品が贈呈された。また各試合の勝利リーグ、試合前のアトラクション出場選手に対する参加賞、またオールスター選出選手全員にも出場記念品として三洋製品が贈られた。
  • また、ファン投票において得票数トップとなった選手を「最多得票プレーヤー」として表彰。

過去の名場面[編集]

1952年7月3日(第1戦・西宮球場
オールスター史上最長の延長21回、試合時間4時間30分。
1962年
尾崎行雄が17歳でオールスター出場(1962年のオールスターの項参照)。
1971年7月17日(第1戦・西宮球場)
全セの先発江夏豊阪神)が規定の3イニングを投げ、9者連続奪三振を達成。全セはその後継投した4投手(渡辺秀武=巨人高橋一三=同、水谷寿伸=中日小谷正勝=大洋)も安打を許さず、継投によるノーヒットノーランを達成。この試合、江夏はMVPとなる。
1974年7月21日(第1戦・後楽園球場
全パ1点ビハインドの9回裏、最強の代打男である全パの高井保弘阪急ブレーブス)が松岡弘ヤクルトスワローズ)から史上初の代打逆転サヨナラ2ランホームランを放ちMVP。
1978年7月22日(第1戦・広島市民球場
全セのギャレット広島)が、高橋直樹日本ハム)・藤田学南海)・柳田豊近鉄)からそれぞれホームランを放ち1試合3本塁打を達成。7月25日の第3戦(後楽園球場)では全セの掛布雅之(阪神)が佐伯和司(日本ハム)・佐藤義則阪急)・山口高志(阪急)から3打席連続ホームランを放つ。
1981年7月26日(第2戦・横浜スタジアム
全セ1点ビハインドの9回裏、バッターは山本浩二、マウンドには江夏豊(日本ハム)が上がっており、かつてのチームメイト同士の対決が実現。結果は山本がセンターバックスクリーンへ値千金の同点ホームラン。その後試合は延長に入り12回裏、阪神・掛布雅之が近鉄・柳田豊からライトスタンドへサヨナラホームランを放つ。掛布自身、現役14年間でペナントレースにおいて1本もサヨナラ打を打っていないため、これが現役生活唯一のサヨナラホームラン
1984年7月24日(第3戦・ナゴヤ球場
江川卓(巨人)が8者連続奪三振を達成。しかし9者連続奪三振がかかった最後の打者・大石大二郎近鉄)は二ゴロで歴代タイ記録は逃した。このとき投げたのは江川の持ち味である直球ではなくカーブであった[1]
1986年7月20日(第2戦・大阪球場
監督推薦で阪神の川藤幸三現役19年目で初のオールスター代打で出場。近鉄・小野和義から安打を放つも、一塁コーチャー王貞治が腕をグルグル廻して二塁への走塁を指示。結果二塁でタッチアウトとなり、記録はシングルヒット。コーチと選手が別球団のため、走力を考慮しないでコーチの指示が出されたオールスターならではのシーンである。川藤はこの年を持って引退。
1987年7月28日(第3戦・阪神甲子園球場
共にPL学園出身の同級生、桑田真澄(巨人)対清原和博(当時西武)プロ入り初対決。結果は清原がレフトへホームランを放ち清原の勝ち。
1988年7月26日(第3戦・東京ドーム
同点の延長12回裏全セの攻撃。1死満塁絶好のサヨナラのチャンス。野手を全て使い果たした全セは横浜大洋中山裕章の打順に巨人の投手水野雄仁を代打に。水野はロッテ牛島和彦からセンターへ犠牲フライを放ち全セがサヨナラ勝ち。史上初投手による犠牲フライでサヨナラ勝ちとなった。なお、この試合では広島の投手大野豊も代走として出場している。
1991年7月24日(第2戦・広島市民球場)
全パの秋山幸二自打球を左目に当て、そのまま負傷退場。この時点で全パは野手を全て使い果たしていたため投手の野茂英雄を代打に送った。結果は見逃し三振。しかしツーストライクからの代打なので記録は秋山に付いた。秋山が守備についていたレフトにはこれまた投手の工藤公康を入れたが、その後駒田徳広が工藤のいるレフトへフライを打ち上げ、へっぴり腰で構える工藤のそばへセンターの愛甲猛がカバーに行きゆっくりぶつかるも、工藤が辛くもレフトフライを捕球した。そして全セも、試合が延長戦に入ったため第1戦勝利投手の槙原寛己を緊急リリーフのマウンドへ。その槙原は、ホーム用ユニフォームのクリーニングが間に合わなかったため、練習用ユニフォームを着用してマウンドへ上がった。これを受け、この年を最後にオールスターゲームでの延長戦は廃止。また全控え野手が出場した後に負傷等で野手が交代を余儀なくされた場合は一度退いた野手の再出場を認めるという特例が定められた(2007年現在、適用された例はない)。
1992年7月19日(第2戦・千葉マリンスタジアム
全セの古田敦也(ヤクルト)がオールスター史上初のサイクルヒットを達成。1991年に続き、2年連続のMVPを獲得。
1996年7月21日(第2戦・東京ドーム)
最終回全パの西崎幸広(日本ハム)が全セの大豊泰昭(中日)をサードフライに打ち取ったところで、仰木彬監督はセンターのイチローをマウンドへ。松井秀喜の打順だったが、全セの野村監督はこれを対戦相手への侮辱と捉え、相手となるはずだった松井の立場を考慮し、投手の高津臣吾ヤクルト)を代打に送った。
2001年
松井秀喜・中村紀洋がオールスター史上初となる同一年度での3試合連続本塁打を達成。
2004年7月11日(第2戦・長野オリンピックスタジアム
捕手矢野輝弘福原忍(いずれも阪神)の投球を返球した瞬間、三塁ランナーだった全パのSHINJO(日本ハム)が単独ホームスチールを敢行し、見事成功。オールスター史上初の単独ホームスチールとなった。この時のヒーローインタビューで、SHINJOは「これからは、パリーグです」と答え、プロ野球再編問題に揺れるプロ野球ファンの心を大きく掴む。その新庄のパフォーマンスに象徴されるとおり、この頃からオールスターゲームはただのお祭りという趣向が薄れ、パリーグとセリーグが互いの矜恃を賭して戦う真剣勝負の様相を呈し始める。
2005年
この年のオールスターは両試合共にパ・リーグから出場した審判員がオールスターモデルの赤シャツで試合を裁き、異彩を放った。全セ清原和博が全パ西口文也から右中間へホームランを放ち、オールスター歴代単独2位となる通算13本塁打を達成。
2006年7月21日(第1戦・明治神宮野球場
1回表、この年限りでの現役引退を表明していた全パのSHINJO(日本ハム)が虹色の輝きを放つバットを手に登場。投手の川上憲伸が打ち合わせどおりの大暴投をすると、腰のベルトに取り付けられた電光掲示板のスイッチをオン。「NEVER MIND WHATEVER I DO FAN IS MY TREASURE(ほっとけオレの人生だ。ファンはオレの宝物)」というメッセージが流れた。この電光掲示は7月23日(第2戦・サンマリンスタジアム宮崎)では「I ♥ U」や「夢は見るものではなくてつかむもの」、「ここまで野球ができたのもファンのおかげ」(いずれも実際は片仮名での表記)というものに変わっていた。森本稀哲は第1戦でドラゴンボールピッコロ大魔王に扮したメイクで、第2戦には自分が円形脱毛症だったことを意識してかフランシスコ・ザビエルに似せたカツラを被って登場。ロッテ・西岡剛との重盗によるホームスチールを決めた。この年屈指の好勝負が藤川球児カブレラと藤川対小笠原道大の対戦。藤川は全球予告ストレートで挑み、カブレラは三振(4球)、小笠原もファウルで6球粘ったが最後は三振。計10球
2007年7月20日(第1戦・東京ドーム)
全セが史上初めて1人1回投手リレー(上原浩治(巨人)→高津臣吾(東京ヤクルト)→林昌範(巨人)→木塚敦志(横浜)→岩瀬仁紀(中日)→黒田博樹(広島)→久保田智之(阪神)→クルーン(横浜)→藤川球児(阪神)を行い、初回先頭打者・西岡の内野安打1本のみに抑えての完封勝ち。
2007年7月21日(第2戦・フルキャストスタジアム宮城
この年のオールスターの第2戦は午後2時10分のプレイボールとデーゲームでの開催。日中開催は1955年の第5回記念大会以来、実に52年ぶり。
この試合は、史上初の降雨コールドゲームとなった。

過去の放送順(21世紀以降)[編集]

オールスターの地方開催と中継権[編集]

各局の中継傾向[編集]

  • NHK:かつてはテレビ・ラジオ両方とも放送していたが、前述の理由でテレビは1994年、ラジオは2003年をもってオールスター中継から撤退した。
    • テレビ:NHK総合1954年から1978年までは生中継の放送を実施していたが、それ以降1994年までは「オールスターハイライト」と題した40分程度の録画中継番組を深夜のスポーツニュース内包(一部年度独立番組)として放送していた。実況アナウンサーとNHK解説者のやり取りに重点を置くので中継ゲストは登場させなかった。また解説者は東京のスタジオにいたので「カラ出張」放送だった。なおテレビでの1局単独中継は1971年が最後である。ちなみに年間に公式戦80試合以上中継する衛星第1テレビは放送開始当初からMLBオールスターゲーム関連番組を放送するため中継しない。
    • ラジオ:NHKラジオ第11962年までは第2)で放送され、基本的コンセプトはテレビと同じ。1996年のみアトランタオリンピック中継のため中継しなかった。しかし、2004年に全面撤退。
  • 日本テレビ系列:かつては巨人中心の中継スタイルが随所見られたが、野球中継の視聴率低下とともに薄れる傾向にあるが、元巨人選手をクローズアップする点は現在も変わらない[1]
  • TBS系列:テレビはJNN、ラジオはJRNで全国ネットをカバーしている。
    • テレビ:1975年腸捻転解消以前は朝日放送製作分もネットしていた。一時期、浴衣姿の女性アナウンサーを大量投入させていたが、近年はTBSのプロ野球中継のテーマソングを歌った歌手をゲストに呼ぶ傾向にある。例としては、2003年第2戦で島谷ひとみが、2006年第2戦でPUFFYが其々ゲスト出演していた。
    •  ラジオ:以前はTBS系列局で解説を行なっていた現役コーチをゲストで招いたが、現在は基本的に実況アナと解説者以外は出演していない。
  • フジテレビ系列:1960年代から芸能人を中継ゲストに呼んでいた。1989年の第1戦では人気芸能人を一度に7人出演させた。その後2001年の第1戦でスタジオタレントと現役選手のやり取りが選手会・視聴者の反感を買い、一時、オールスター中継を自粛した。また1970年代から解説者を大量動員してのベンチ裏・観客席リポートが特徴である。
  • テレビ朝日系列:腸捻転時代は毎日放送中継分もネットしていた。また1990年代初頭まではフジ系列同様、自局の番組に出演する芸能人をゲスト出演させていた。現在の特色としては投手出身の解説者にネット裏球種解説が挙げられる。
  • テレビ東京系列:ネット局が少ないためにオールスター中継は1971年の第2戦のみである[2]。その後、1979年から1993年までジュニアオールスターゲーム(現・フレッシュオールスター)を中継していた。ジュニア中継は始球式に登板したアイドルなど若手芸能人がゲスト出演していた。また1980年代は毎年のように宍戸錠が登場していた。
  • 文化放送:基本的に実況アナと解説者とリポートアナが出演する形式だが、1980年代の一時期、平日の試合で解説者を置かず実況アナのみで中継するスタイルが取られた。それ以前、他局に先駆けて1955年から芸能人をゲストに呼んでいる。
  • ニッポン放送:1980年代、ビートたけしが毎年登場していた。現在は極たまにに現役監督がゲスト解説に登場する。
  • ラジオ日本:他のラジオ局同様実況アナと解説者のやり取りが多い。1970年代は現場の監督・コーチを招いていた。
  • ラジオNIKKEI:日本短波放送時代の1955年から1962年までの8年間とラジオたんぱ時代の1978年から1985年までの8年間中継していた。1955年に限り、デーゲームの模様を当日夜に録音放送した。

オールスターゲームの視聴率[編集]

オールスターゲームの視聴率1970年代末期から1980年代までは30%台を記録し1990年代までは20%台をキープしていたがここ数年は10%台に下がる傾向にあり、2005年度にはついにオールスターゲーム史上過去最低視聴率を記録してしまった。関東地区では低下傾向であるものの関西地区などでは依然高い数字を記録し、西高東低となってきている。

いずれも関東地区平均(ビデオリサーチ調べ)。

世帯別平均が高視聴率の試合
1978年:第1戦(7月22日、TBS系)34.6%
1979年:第1戦(7月21日、TBS系)34.6%、第2戦(7月22日、TBS系)32.9%、第3戦(7月24日、フジテレビ系)33.5%
1981年:第2戦(7月26日、TBS系)32.8%、第3戦(7月28日、フジテレビ系)29.8%
1983年:第1戦(7月23日、フジテレビ系)32.5%、第2戦(7月24日、フジテレビ系)32.5%
1984年:第1戦(7月21日、日本テレビ系)30.9%
1988年:第1戦(7月24日、フジテレビ系)30.5%
過去10年間の世帯別平均視聴率
1998年:第1戦(7月22日、TBS系)21.2%、第2戦(7月23日、TBS系)21.0%
1999年:第1戦(7月24日、テレ朝系)27.6%、第2戦(7月25日、テレ朝系)23.6%、第3戦(7月27日、フジ系)16.7%
2000年:第1戦(7月22日、日テレ系)22.0%、第2戦(7月23日、フジ系)22.0%、第3戦(7月26日、日テレ系)19.8%
2001年:第1戦(7月21日、フジ系「FNS ALLSTARS27時間笑いの夢列島」内)15.2%、第2戦(7月22日、TBS系)16.0%、第3戦(7月24日、日本テレビ系)14.5%(第2部)
2002年:第1戦(7月12日、テレビ朝日系)16.3%、第2戦(7月13日、日本テレビ系)18.1%(第2部)
2003年:第1戦(7月15日、テレビ朝日系)14.7%、第2戦(7月16日、TBS系)14.3%
2004年:第1戦(7月10日、フジテレビ系)14.7%、第2戦(7月11日、TBS系)15.4%
2005年:第1戦(7月22日、テレビ朝日系)11.9%、第2戦(7月23日、テレビ朝日系)10.3%
2006年:第1戦(7月21日、フジテレビ系)12.6%、第2戦(7月23日、TBS系)12.2%
2007年:第1戦(7月20日、日本テレビ系)13.5%、第2戦(7月21日、TBS系)8.2% ※過去最低視聴率

今後の開催スタジアム[編集]

主なオールスター記録[編集]

(太字名は現役選手、所属チーム名は記録達成時のもの)

出場に関する記録[編集]

年齢に関する記録[編集]

通算記録[編集]

連続記録[編集]

1試合チーム記録[編集]

1試合個人記録[編集]

なお、江夏は1970年のオールスター登板を5連続奪三振で終えており、当該試合を経て第3戦の6回に登板。1三振(江藤慎一)を奪ったのち、野村克也にセカンドゴロで阻止されるまで、3試合合計で15連続奪三振を達成したことになる
通常一投手3イニングまでの登板とされているが、延長戦イニングに入った場合はその規定の対象外となっていたため

その他[編集]

これまでの試合結果[編集]

開催日 勝利チーム スコア 敗戦チーム 開催球場 MVP
1 1951年7月4日
     7月7日
     7月8日
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
2-1
4-2
4-3
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
阪神甲子園球場
後楽園球場
後楽園球場
川上哲治
野口明
林義一
2 1952年7月3日
     7月5日
(引き分け)
パ・リーグ
2-2
8-1
(引き分け)
セ・リーグ
西宮球場
後楽園球場
---
飯島滋弥
3 1953年7月1日
     7月6日
     7月8日
パ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
2-0
2-0
3-0
セ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
後楽園球場
阪神甲子園球場
中日スタヂアム
飯田徳治
平井三郎
堀井数男
4 1954年7月3日
     7月4日
パ・リーグ
パ・リーグ
5-2
2-1
セ・リーグ
セ・リーグ
西宮球場
後楽園球場
中西太
山内一弘
5 1955年7月2日
     7月3日
パ・リーグ
セ・リーグ
2-0
9-4
セ・リーグ
パ・リーグ
大阪球場
阪神甲子園球場
山内一弘
西沢道夫
6 1956年7月3日
     7月4日
パ・リーグ
セ・リーグ
8-0
2-0
セ・リーグ
パ・リーグ
後楽園球場
後楽園球場
森下正夫
吉田義男
7 1957年7月11日
7月13日
パ・リーグ
セ・リーグ
5-2
5-4
セ・リーグ
パ・リーグ
中日スタヂアム
中日スタヂアム
大下弘
宮本敏雄
8 1958年7月27日
7月29日
セ・リーグ
パ・リーグ
5-2
8-3
パ・リーグ
セ・リーグ
平和台球場
広島市民球場
宮本敏雄
中西太
9 1959年7月28日
7月29日
パ・リーグ
セ・リーグ
9-0
6-4
セ・リーグ
パ・リーグ
西宮球場
大阪球場
山内一弘
中利夫
10 1960年7月25日
7月26日
7月27日
パ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
3-1
5-4
6-5
セ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
川崎球場
後楽園球場
後楽園球場
森下整鎮
金田正一
張本勲
11 1961年7月18日
7月19日
パ・リーグ
パ・リーグ
3-0
4-2
セ・リーグ
セ・リーグ
中日スタヂアム
阪神甲子園球場
広瀬叔功
田宮謙次郎
12 1962年7月24日
7月26日
パ・リーグ
パ・リーグ
7-0
5-4
セ・リーグ
セ・リーグ
平和台球場
広島市民球場
ジャック・ブルーム
張本勲
13 1963年7月22日
7月23日
7月24日
セ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
6-4
11-9
8-5
パ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
後楽園球場
東京スタジアム
明治神宮野球場
近藤和彦
王貞治
古葉毅
14 1964年7月20日
7月21日
7月22日
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
1-0
5-1
10-2
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
川崎球場
中日スタヂアム
大阪球場
金田正一
ジェームス・マーシャル
ジョー・スタンカ
15 1965年7月19日
7月20日
7月21日
パ・リーグ
パ・リーグ
(引き分け)
5-2
6-3
1-1
セ・リーグ
セ・リーグ
(引き分け)
後楽園球場
西宮球場
平和台球場
ダリル・スペンサー
高倉照幸
江藤愼一
16 1966年7月19日
7月20日
7月21日
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
6-2
6-3
5-1
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
東京スタジアム
阪神甲子園球場
広島市民球場
広瀬叔功
榎本喜八
古葉竹識
17 1967年7月25日
7月26日
7月27日
パ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
9-4
7-3
9-6
セ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
明治神宮野球場
中日スタヂアム
大阪球場
土井正博
長池徳士
大杉勝男
18 1968年7月23日
7月24日
7月25日
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
2-1
8-3
5-4
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
川崎球場
後楽園球場
西宮球場
江藤愼一
柴田勲
小池兼司
19 1969年7月19日
7月20日
7月22日
パ・リーグ
パ・リーグ
(引き分け)
7-6
6-3
4-4
セ・リーグ
セ・リーグ
(引き分け)
東京スタジアム
阪神甲子園球場
平和台球場
土井正博
船田和英
---
20 1970年7月18日
7月19日
7月21日
パ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
13-9
4-1
8-6
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
明治神宮野球場
大阪球場
広島市民球場
長池徳士
江夏豊
遠井吾郎
21 1971年7月17日
7月19日
7月20日
セ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
5-0
4-0
3-2
パ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
西宮球場
中日スタヂアム
後楽園球場
江夏豊
長池徳士
加藤秀司
22 1972年7月22日
7月23日
7月25日
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
5-2
4-0
1-0
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
東京スタジアム
川崎球場
阪神甲子園球場
野村克也
阪本敏三
池田純一
23 1973年7月21日
7月22日
7月24日
セ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
9-3
1-0
2-1
パ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
明治神宮野球場
大阪球場
平和台球場
若松勉
福本豊
山崎裕之
24 1974年7月21日
7月22日
7月23日
パ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
3-2
6-3
1-0
セ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
後楽園球場
西宮球場
広島市民球場
高井保弘
福本豊
張本勲
25 1975年7月19日
7月20日
7月22日
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
8-0
4-3
3-0
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
阪神甲子園球場
中日スタヂアム
明治神宮野球場
山本浩二
松原誠
土井正博
26 1976年7月17日
7月18日
7月20日
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
3-1
11-1
5-1
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
川崎球場
後楽園球場
大阪球場
有藤道世
門田博光
吉田孝司
27 1977年7月23日
7月24日
7月26日
セ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
2-1
4-0
4-3
パ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
平和台球場
西宮球場
明治神宮野球場
若松勉
野村克也
王貞治
28 1978年7月22日
7月23日
7月25日
セ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
7-5
9-0
8-5
パ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
広島市民球場
阪神甲子園球場
後楽園球場
エイドリアン・ギャレット
簑田浩二
掛布雅之
29 1979年7月21日
7月22日
7月24日
セ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
11-2
3-1
7-5
パ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
大阪球場
ナゴヤ球場
明治神宮野球場
王貞治
ボビー・マルカーノ
山本浩二
30 1980年7月19日
7月20日
7月22日
セ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
7-6
3-1
2-1
パ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
西宮球場
川崎球場
後楽園球場
岡田彰布
平野光泰
江夏豊
31 1981年7月25日
7月26日
7月28日
パ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
5-3
6-3
6-0
セ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
阪神甲子園球場
横浜スタジアム
明治神宮野球場
藤原満
掛布雅之
山倉和博
32 1982年7月24日
7月25日
7月27日
パ・リーグ
(引き分け)
セ・リーグ
7-2
5-5
3-2
セ・リーグ
(引き分け)
パ・リーグ
後楽園球場
西武球場
大阪球場
福本豊
柏原純一
掛布雅之
33 1983年7月23日
7月24日
7月26日
パ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
5-3
4-3
4-1
セ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
明治神宮野球場
西宮球場
広島市民球場
門田博光
梨田昌孝
落合博満
34 1984年7月21日
7月22日
7月24日
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
14-5
6-5
4-1
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
後楽園球場
阪神甲子園球場
ナゴヤ球場
簑田浩二
ブーマー・ウェルズ
江川卓
35 1985年7月20日
7月21日
7月23日
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
2-0
6-5
10-2
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
明治神宮野球場
川崎球場
藤井寺球場
高木豊
ウォーレン・クロマティ
松永浩美
36 1986年7月19日
7月20日
7月22日
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
6-4
4-3
5-3
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
後楽園球場
大阪球場
広島市民球場
山本和範
清原和博
吉村禎章
37 1987年7月25日
7月26日
7月28日
パ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
7-4
8-3
9-7
セ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
西武球場
横浜スタジアム
阪神甲子園球場
高沢秀昭
石毛宏典
清原和博
38 1988年7月24日
7月25日
7月26日
パ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
3-1
4-1
4-3
セ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
西宮球場
ナゴヤ球場
東京ドーム
ブーマー・ウェルズ
岡田彰布
正田耕三
39 1989年7月25日
7月26日
パ・リーグ
セ・リーグ
6-0
4-1
セ・リーグ
パ・リーグ
明治神宮野球場
藤井寺球場
村田兆治
彦野利勝
40 1990年7月24日
7月25日
パ・リーグ
パ・リーグ
7-0
12-7
セ・リーグ
セ・リーグ
横浜スタジアム
平和台球場
ラルフ・ブライアント
清原和博
41 1991年7月23日
7月24日
セ・リーグ
(引き分け)
1-0
3-3
パ・リーグ
(引き分け)
東京ドーム
広島市民球場
古田敦也
広沢克己
42 1992年7月18日
7月19日
7月21日
パ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
6-1
6-4
4-2
セ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
阪神甲子園球場
千葉マリンスタジアム
県営宮城球場
石井浩郎
古田敦也
駒田徳広
43 1993年7月20日
7月21日
パ・リーグ
セ・リーグ
10-8
10-8
セ・リーグ
パ・リーグ
東京ドーム
グリーンスタジアム神戸
清原和博
トーマス・オマリー
44 1994年7月19日
7月20日
パ・リーグ
セ・リーグ
8-1
7-3
セ・リーグ
パ・リーグ
西武球場
ナゴヤ球場
秋山幸二
グレン・ブラッグス
45 1995年7月25日
7月26日
(引き分け)
セ・リーグ
4-4
7-6
(引き分け)
パ・リーグ
横浜スタジアム
広島市民球場
落合博満
松井秀喜
46 1996年7月20日
7月21日
7月23日
パ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
7-4
7-3
4-2
セ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
福岡ドーム
東京ドーム
富山市民球場
山本和範
清原和博
金本知憲
47 1997年7月23日
7月24日
パ・リーグ
セ・リーグ
5-0
6-3
セ・リーグ
パ・リーグ
大阪ドーム
明治神宮野球場
松井稼頭央
清原和博
48 1998年7月22日
7月23日
セ・リーグ
(引き分け)
4-1
3-3
パ・リーグ
(引き分け)
ナゴヤドーム
千葉マリンスタジアム
川上憲伸
松井秀喜
49 1999年7月24日
7月25日
7月27日
セ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
8-4
9-5
2-1
パ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
西武ドーム
阪神甲子園球場
マスカットスタジアム
松井秀喜
ロバート・ローズ
新庄剛志
50 2000年7月22日
7月23日
7月26日
セ・リーグ
セ・リーグ
セ・リーグ
5-4
12-4
9-3
パ・リーグ
パ・リーグ
パ・リーグ
東京ドーム
神戸球場
長崎ビッグNスタジアム
ロベルト・ペタジーニ
山崎武司
清原和博
51 2001年7月21日
7月22日
7月24日
パ・リーグ
セ・リーグ
パ・リーグ
7-1
12-6
8-4
セ・リーグ
パ・リーグ
セ・リーグ
福岡ドーム
横浜スタジアム
札幌ドーム
松井稼頭央
ロベルト・ぺタジーニ
中村紀洋
52 2002年7月12日
7月13日
セ・リーグ
パ・リーグ
4-1
4-2
パ・リーグ
セ・リーグ
東京ドーム
松山坊っちゃんスタジアム
ジョージ・アリアス
的山哲也
53 2003年7月15日
7月16日
(引き分け)
セ・リーグ
4-4
5-3
(引き分け)
パ・リーグ
大阪ドーム
千葉マリンスタジアム
高橋由伸
金本知憲
54 2004年7月10日
7月11日
パ・リーグ
パ・リーグ
6-3
2-1
セ・リーグ
セ・リーグ
ナゴヤドーム
長野オリンピックスタジアム
松坂大輔
SHINJO
55 2005年7月22日
7月23日
セ・リーグ
セ・リーグ
6-5
5-3
パ・リーグ
パ・リーグ
インボイスSEIBUドーム
阪神甲子園球場
金城龍彦
前田智徳
56 2006年7月21日
7月23日
セ・リーグ
セ・リーグ
3-1
7-4
パ・リーグ
パ・リーグ
明治神宮野球場
サンマリンスタジアム宮崎
青木宣親
藤本敦士
57 2007年7月20日
7月21日
セ・リーグ
セ・リーグ
4-0
11-5
パ・リーグ
パ・リーグ
東京ドーム
フルキャストスタジアム宮城
アレックス・ラミレス
阿部慎之助 

注釈[編集]

  1. 1974年第3戦は広島テレビ放送広島ホームテレビの並列放送だったが、この時は広テレ(日テレとフジ系のクロスネット)がフジ系列の中継を行い、UHTはテレビ朝日系ながら広テレの編成都合で放送できなかった日テレ系の番組配信を行っていたので、日テレ系の中継を行った(解説者も日テレから派遣)。また1966年第3試合と1970年第3試合は、広テレ製作のフジ系全国放送の分と、広テレが裏送りする形(技術協力)を結んだ日テレ系全国放送の分の2ラインをとって放送した(当時UHT、TSSは未開局)。
  2. 本来1971年の第2試合は中部日本放送発のTBS系列全国放送をすることになっていたが雨天中止となり、その予備日の放送がCBC系列では編成の都合で実施できなかった。その関係で当初は放送予定がなかった系列局がない独立局の時代の東京12チャンネルが中継権を得た。この時は東京12チャンネルの番販ネットを行った三重テレビ放送岐阜テレビが共同技術協力して放送した

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

オールスターゲーム(日本プロ野球)

1951 | 1952 | 1953 | 1954 | 1955 | 1956 | 1957 | 1958 | 1959
1960 | 1961 | 1962 | 1963 | 1964 | 1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969
1970 | 1971 | 1972 | 1973 | 1974 | 1975 | 1976 | 1977 | 1978 | 1979
1980 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989
1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999
2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007

日本プロ野球
セントラル・リーグ パシフィック・リーグ

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